会社解散(自主廃業)物語 (1)はじめに
- jvec2017
- 1月28日
- 読了時間: 5分
現在私は屋上菜園の仕事(施工と野菜栽培)をしている。この仕事がライフワークとなった。屋上菜園の仕事は都会のビルの屋上のスペースを利用して菜園をつくり野菜類(葉菜、果菜、根菜)を有機的に栽培して、収穫して新鮮な野菜を食べて頂くというのが主な内容となる。
この仕事を始めてから既に19年が経った。現在では8ヶ所のビルの屋上に菜園を設置して、野菜栽培を続けている。最近になって屋上菜園の引き合いが増えている。いよいよそのような時代になってきたとの嬉しい思いがある。
建物の屋上については建築基準法で厳しい条件がある。地震力荷重だ。1㎡あたり載せられる重量は60kg迄となっている。超軽量有機培養土、菜園の設置が簡単にできる菜園セットの開発、薄い作土層(土の深さ平均18cm)で葉菜、果菜、根菜を有機的に栽培する・・・このための試行錯誤が長い間続いた。そして現在に至っている。
現在屋上菜園の面積は8ヶ所合計で約300㎡に上っている。屋上菜園の仕事は一般社団法人ジャパンベジタブルコミュニティ(略称JVEC)(非営利)の事業として展開している。会員数は30名。私は今年2025年3月で満80歳になる。第一線を引く年齢になった。これからは後継者の皆さんがJVECを支え、発展させていくのを見守っていきたい。
今回自主廃業物語をJVECのホームページに掲載することを考えたのは以下の
ような理由からだった。
現在自分が、遣り甲斐のある、打ち込んでいける仕事ができるのも自主廃業できたからで、もし自分が社長だった会社が倒産していたら、借金の返済、残務処理で、自分の人生は終わっていたことだろう。20年以上経った今、改めて思うことは今私が家族と一緒に暮らし、自分のライフワークに取り組めるのも自主廃業できたからだ。倒産していたらどうなっていたか、それを考えるだけでもゾッとする。日本では倒産した会社経営者への世間の目は厳しい。敗北者、敗残者扱いされる。私は「昭和枯れすすき」を長いこと、倒産者夫婦の歌として聞いていた。
会社がなくなっても自分の人生が無くなるわけではない。会社にも寿命があるのではないか。会社の役割が終わりつつある、と思ったら早めに病状が深刻になる前に決断して会社を閉じて、重荷を負うことなく、新しい人生に向かって頂きたい。特に中小零細企業の場合は大企業の経営者と比べ倒産した場合は悲惨な結果になりかねない。
自主廃業は言うまでもなく、自分の力だけでできるものではない。多くの人達の理解と協力があったからこそできたことだ。それらの人々への感謝もこめて、この物語を綴っていくことにしたい。
私が会社を自主廃業してから早いもので24年経った。自主廃業が結了したのは2001年11月だった。自主廃業を決断したのは1999年の9月、結了迄の約2年間、倒産の危機を感じながら、まさに崖縁の道を歩み続けた。血圧は上がり、髪の毛も白くなっていった。結了時私は54歳になっていた。会社廃業は人生の廃業ではない、これから自分にふさわしい新しい人生に向かっていくのだ。そう自分を奮い立たせようとしたが、自主廃業のための労苦は予想以上だった。
ずっと昔のことのようでもあり、また当時の記録を読むとまるで昨日のことのように思い出される。失敗と挫折が続いた私の人生の中で、自主廃業は大きな、そして最大の山だった。その山を何とか乗り越えた後の年月は自分が本当にやりたいことを見つけるために、模索の旅となった。まさに試行錯誤の連続だった。まだまだ働かなければならない年齢だ。世間では会社人生の仕上げの時期となる。以前勤めていた会社の同僚が役員になったとの話も聞いた。それに引き換え自分は・・・。
その頃、三条正人と若山あずさが歌った「昭和枯れすすき」を私は何度も何度も聞いた。私は「力の限り生きた」だろうか。「未練などない」だろうか。そうは言えなかった。結局自分は花の咲かない枯れすすきのような人間なのかもしれない。
さしたる固定的収入もなく、6年間は貯金を食いつぶしていた。小さな会社の顧問、セールスレップの仕事、仲間と一緒に始めた営業開発倶楽部。しかしいずれも長続きしなかった。虚しさ、寂しさに襲われる日々が続いた。結局自分が安定した仕事につけなかったのは自分の中に能力がなかったからだ、そう思わずにはいられなかった。
60歳になったのを機に年金の申請をして、年金の受給が受けられるようになった。これで最低限の生活はできる。家内も少しは安心したことだろう。
今回自分の自主廃業物語を書こうと思った理由は、2つある。
新型コロナウイルスのために会社を、あるいは店を閉じようと考えている経営者が多くいるのでないか。できれば倒産する前に会社を自主廃業する方がダメージが少ない。倒産すると自分の家も財産も失うことになる。自分の家があり、健康であればなんとか生きていける。再起の可能性も高くなる。
またこれを機会に、仕事=人生、という生き方ではなく、自分の人生をもっ と豊かにするための視点を経営者の皆さんに持って頂きたい。仕事で成功しても人生で失敗する人がいる。仕事で失敗しても人生で成功する人がいる。会社勤めの時、マレーシアに駐在した。その時ある会社の経営者から会社は卵を産む鳥で、卵を産まなくなったら処分する、会社はあくまで利益を上げるためのツール(手段)だという話を聞いた。
自主廃業は言うまでもなく、自分の力だけでできるものではない。多くの人達の理解と協力があったからこそできたことだ。それらの人々への感謝もこめて、この物語を綴っていくことにしたい。
(第1話 了 2025.1.27)
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