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時代小説「欅風」(10)波江・身辺変化その一

 ここ暫く頑張りすぎたのかもしれない。その疲れに風邪が加わったのだろう、波江は寝込んでしまった。何とか起き上がって出かけようとしたが身体がいうことをきかない。諦めて泣く泣く花橘には使いをやり、暫くお休みを頂く旨伝えさせた。三福にも同じく使いをやって休業の看板を下げてもらった。こんなことはお江戸に出てきてから初めてのことだった。

 母屋から菊枝が梅干と鰹節けずりを上にまぶしたお粥と薬草を煮出した風邪薬を持ってきた。

「具合はどうですだ。ここに粥と風邪薬を持ってきただよ」

 波江は肩肘をついて上半身を少し起こして、菊枝を迎えた。

「いつもありがとうございます。お世話をかけて申し訳ありません。」

「はやく良くなってくださいよ。何か入用なものがあったら遠慮なく言ってくだせえ」

「ご心配をおかけします。今のところは大丈夫です」

「それじゃ、これから畑仕事があるもんで」そう言って菊枝は母屋に帰っていった。

 

 粟・ヒエ・米の粥にイモが入っていた。温かい粥を食べ、風邪薬を飲んだ後、波江は再び眠った。夢を見ていた。故郷平戸島で過ごした少女時代の夢だった。

 波江は平戸城近くの海に面した丘の上に立っていた。傍らに赤ん坊の時に病気で死んだ兄が寄り添っている。「お兄ちゃん、波江が困った時は助けてね。きっとだよ」

 二人は手を繋いで、オランダ塀から海を眺め、石畳の坂道を歩き、幸橋の上から川の流れに降りたり、海からの風に吹かれながら、平戸の街角を巡り巡って、今丘についた。目の下には平戸瀬戸に浮かぶ黒子島の鬱蒼とした森が見える。波江はこの卵を半分に切って横に置いたような島が好きだった。一度父にあの島に連れていってほしい、とせがんだことがあった。そこだけ別世界のような感じがしていたことが波江の好奇心を掻き立てたのだ。父はその時、「黒子島には大昔からの森があり、森の神様が誰も近づけないようにしている、という言い伝えがある。もし島に上陸しようとすると、森がザワザワと揺れて、襲いかかってくるそうだ。」そう言って、諦めさせたようとした。しかし今見ている黒子島は初夏の日差しを受けて、緑が美しい。「お兄ちゃん、きれいだね」

 

 平戸瀬戸の向こうに南蛮船が行き来しているのが見える。あの船はポルトガルの船だろうか。以前ポルトガルの水夫が夜、常灯の鼻の側に停泊した船の上で歌を歌っていたのを聞いたことがある。どこかもの悲しい、それでいて朗々とした歌声だった。

「海の向こうの国ってどんなところかしら。お父さん、私行ってみたいの。ポルトガル、イスパニア、オランダ、エゲレスに・・・あの船に乗って」

 平戸瀬戸のはるか彼方の青々とした海原に壱岐の島影が見える。「海の向こうに行きたい」夢の中で波江は父に呼びかけていた。眠っている波江の目尻から涙が流れた。


 菊枝は夫の京太と話していた。

「波江さんは具合悪そうだ。目も熱で潤んでいたし、今までの疲れが一遍にどっと出たんだろうか。畑もあのままだし、こちらで替わりに手入れしておこう」

「菊枝。波江さんの看病を頼むぞ。俺が女ひとりの波江さんのところに行くわけにもいかないからな」

「分かっているよ。お前さん」

菊枝が声を落として、呟くように言った。

「波江さんには誰かいい人がいないんだろうか。いつまでも一人暮らしというわけにはいかないだろうし・・・。武家の生まれだそうだから、やはり相手はお侍さんということになるんだろうね」

「武家のことは俺たちにはわからないが、一度離縁されたことがあるとか、聞いたぞ」

「何が原因だっただろうね。やはり跡継ぎを産まなかったためかもしれないね」

「それだけじゃないかもしれねえな。・・・波江さんはひょっとすると耶蘇かもしれないな。」

「何でそう思うんだ」

「あんなに他人のことを大事にして、自分のことを考えない人なんてそうざらにいるもんじゃない。耶蘇にはそんな人が多いと聞いている」

「お前さんがそう思っただけだね」

「そうさ。ただ、先年幕府は全国に耶蘇教禁止令を出している。もしそうなら波江さんもただじゃ済むまい」

「お前さん、もしそうならどうするつもりなんだよ」

「どうもこうもない。一切知らないことにするんだ。いいな。離れに住んでいるとはいえ、いまじゃ俺たち家族同然の人なんだ。家族だったら守るのが当然だろ」

 外の方に目を向けながら、菊枝は「そうだよね、家族同然なんだ」自分に言い聞かせるように言った。

 波江は午前から午後にかけては花橘で働き、夜は三福で働き、一日働きづくめなので、畑仕事は朝早く起きて、毎日やっていた。休みが取れるのは雨の日に限られていたが、その時は京太、菊枝のところに来て納屋であれこれと手伝っていた。

「波江さんは一体いつ寝ているんだろうね。身体を壊さなければいいんだが」

「あの人は本当に働き者だ。無理をしねえで欲しいが、そうまでして働く訳がきっとあるんだろう」  


  次の朝、菊枝が波江のところに行くとまだ臥せっていた。

「身体に力が入りません。自分でも情けなくなってきます。」

「畑の方はうちの方で替わりの手入れしておこうかね。まずしっかり風邪を治すことだ」

「お願いできますか。ありがとうございます。直によくなると思いますので・・・暫くの間、お願いします」

「いいともよ。波江さんが丹精を込めて作っている青物、土物だから、大事にしなくっちゃね」

 菊枝は粥と風邪薬を波江の枕元に置いて、母屋に戻っていった。波江はそれを見届けてから、慌てて布団の下に隠したクルスを握り締めて、祈った。

「私がここにいることで京太さん、菊枝さんご夫婦に迷惑が掛からないように主よ、お守りください。」

 波江は布団の中で、考えて続けていた。

「私は何のために江戸にいるのかしら。今まで無我夢中でここまできたけど、本当は何のために・・・。それにあのことについてはどうご返事したら良いものか」

  

 新之助は久し振りに仕事が一段落したことを口実に「三福」に来てみた。店の戸に小さな板が掛かっていた。「本日休業」と書いてある。

「今日は休みの日のはずじゃないのに、どうしたのだろう」

 次の日も来てみたが、やはり「本日休業」だった。「何かあったのかもしれない」

 新之助は胸騒ぎを感じたが、打ち消すように、

「きっと風邪で休んでいるのだろう。なあに、すぐ元気になって戻ってくる」

 一週間後、新之助はまた「三福」に来たが、「本日休業」は架かったままだった。 

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