時代小説「欅風」(14)氏安と叡基 土木工事問答
法全和尚から叡基が戻ってきたという知らせが入った。氏安はすぐに使いを出した。法全和尚に連れられて叡基はやってきた。叡基は氏安の顔を見ると、軽く頭を下げた。
「叡基にございます」顔をあげるとまっすぐに氏安の顔を見つめた。
「叡基殿。お会いできるのを心待ちにしていました」そう言って二人を部屋の方に促した。
部屋に座ると直に茶が運ばれてきた。茶を一服飲んだ後、待ちきれないかのように氏安が沈黙を破った。
「叡基殿。和尚から聞かれていることと思うが、現在狭野藩は危急存亡の困難に直面しています」
「大川の堰堤の修復のことですな」
「そうです」
「それで私に何をせよ、と言われるのですか」
「難局を乗り越える知恵を貸してほしいのです」
「私にそれができると?」
「そうです。普請の費えについては私なりにいろいろ考えてみました。問題は普請なのです」
「狭野藩といえば土木技術では聞こえた藩、いくらでも普請を担当する者はおいでではないかと・・・」
「此度は大川の堰堤普請なのです。冬場で水嵩が減っているとは言え、激しく流れる水を堰き止めながら普請をしなければなりません。溜池の狭山池とは訳が違います」
「確かに。・・・川の普請は難しく、時には死人も出ます」
「叡基殿は川の工事もやったことがあると和尚から聞いています。力を貸してくれませぬか」
「氏安様、図面を見せて頂けますでしょうか」
氏安は傍らに準備してあった図面を引き寄せ、叡基の前に広げた。
叡基は黙って図面を見続けていた。そしておもむろに口を開いた。
「これは大工事ですな。幕府も無茶を言う。・・・ところで氏安様はどのような方針を持ってこの普請に取り組もうとされているのでしょうか。お聞かせ頂きたく存じます」
「私はこの普請は天から与えられたわが藩への試練と考えています。この普請は世の為、人の為の普請であるとまっすぐに割り切ろうと思っています。江戸の人々が安心して暮らせるよう、われらは普請をするのです。昔から多くの僧侶が橋を架けたり、隧道を掘ったり、灌漑用の溜池をつくったり、港を補修したり、川の堰堤の普請をしてきていると聞いています。その普請はすべて人々の苦しみを取り除くためであり、金儲けとか名誉のためではなかった。わたしは普請の大本に帰ってこの大川の堰堤普請に取り組みたい、そう心に決めたのです。」
「そうですか。良く分かりました。ところで普請の費用はどのようになさるお積りですか。
莫大な金ですぞ。」
「今の藩にはそのような金はありません。私が考えたのは藩札の発行です。普請の費用全額を藩札で賄うつもりです。」
「金、銀、米の裏づけのない藩札ではただの紙切れになってしまいます。私が旅をして立ち寄った藩の中に、藩札を発行したが結局誰も信用して受け取ってくれないため、藩札を回収した藩がありました。藩札は安易に発行してはなりません」
「藩札の使い方の眼目は職人、農民が今迄以上に生産する時の材料の仕入れのために貸付ける、というところにあります。藩札は十三年間で元利返済とします。藩全体の産出高を上げるのが目的です。そしてわが藩は堺に接している。わが藩の産物を堺の商人を通じて外国に売り、金、銀を得ます。また他藩に売るものについては藩内にある幾つかの物産総会所が直接取り扱います。藩の産物の品質については藩が責任を持つことにしています。大川の普請で使う費用の全額に見合う藩札をいっぺんに発行するとは考えていません。まず最初の藩札の裏付けはわが藩の大商人の米による保証です。金、銀が増えるにつれ、それを裏づけにして藩札の発行を増やしていく、そのように考えています。」
「成る程、考えましたな。ところで失礼ですが、藩札の発行の仕組みは殿がご自分で考えたことなのでしょうか」
「わが藩は小藩でありますが、幸いなことに知恵者がおります。この藩札の仕組みを考えたのは藩士の天岡文七郎というものです」
「一度そのご仁に会ってみたいですな」
「是非会って話し合ってください。叡基殿はいろいろな藩の様子を見聞してきているでしょうから、天岡にとっても見聞を広める良い機会となるはずです。私は天岡の考えは優れた考えと思っていますが、商人、職人、農民が『確かに良い考えだ。やってみよう』という気に心底ならねば、何も始まりません。どうしたらそれができるか、そこが思案のしどころなのです」
「仰る通りでございます。商人、農民には分かりやすく説明することが肝心です。難しい言葉を使わずに血の通った言葉を使うことが大切です。そして商人、農民の心の中に、その言葉が、これから氏安様がなさろうとしている思いが届きましたなら、今度は商人、農民の方からも知恵が出てくるようになります」
「叡基殿は人々の暮らしの中に身を置かれているようだから、商人、職人、農民の気持ちが良く分かるのですね」
「私はただただ仏様の教えを伝えている貧しい僧に過ぎません」
「さて、叡基殿、大川の普請を進めるために私には経験のある確かな相談相手で必要です。私の相談相手になってくださらぬか。叡基殿が相談相手になってくだされば、私はこの普請をやり遂げることができると思います」
「もし私でよろしかったら、お役目引き受けましょう」
「叡基殿、礼を申し上げる。これからよろしく頼む」
氏安は深々と頭を下げた。
「氏安様、ひとつお願いがあります。私はまだその大川の場所を見ておりません。一刻も早く現場の様子を知りたく、明日にでも江戸に向けて出立したいのですが、お許し頂けるでしょうか」
「長い旅から戻ったばかりだというのに済まないことです。それでは明日またここに来てください。手紙、路銀など準備しておきましょう。江戸表に行ったらわが藩の江戸上屋敷に行き、徳田家老と会ってください。江戸上屋敷から現場を案内する者を出すようにしましょう」
「承知しました。天岡殿に会うのはそれからとしましょう。なに、一月もすれば戻ってまいります。それではこれにて失礼します」
二人のやり取りを聞いていた法全和尚は、笑みを浮かべながら、一言、
「今日はお引き合わせして良かった。お二人力を合わせて頑張りなされ」部屋を出ていった。それが、氏安が法全和尚の元気な姿を見た最後だった。
法全和尚は叡基が江戸に向かった後、脳卒中で倒れ、意識が戻らないまま、息を引き取った。駆けつけた氏安の手をしっかり握りながら、最後にかすかに唇を動かした。氏安にはそれは「頑張りなされ」と読めた。
それから暫く経って、氏安は菩提寺に行き、先祖の墓の前で祈った。
「ご先祖様、法全和尚のお陰で私は叡基殿という、またとない相談相手を得ました。折に触れ、私に必要な助け手をお与えください。どんな困難が来ようとも私はご先祖様と一緒に乗り越えて参ります。」
その時どこからか風が吹いてきた。法全和尚の声が聞こえたような気がした。
「苦しい時こそ、にっこり笑ってくだされ。そうすれば道が開けますぞ」
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