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時代小説「欅風」(16)波江・新しい生活-2

 朝早く、波江は千恵を連れて京太、菊枝夫婦のところに挨拶に行った。

「私の知り合いの娘さんです。訳あって両親と離れ離れで暮らすことになりました。それで暫く預かることにしたいと思いますので、よろしくお願いします。決してご迷惑はおかけ致しません。千恵と言います」

 京太も菊枝も訳については何も聞かず、「そうですか、分かりました。今日から賑やかになるね」

 千恵は土間に手をついて、挨拶した。「千恵と申します。暫くお世話になります。どうぞよろしくお願いします」

 京太は慌てて、ぎこちなく腰を折って「こちらこそよろしく」


 波江と千恵が家に戻った後、菊枝が「利発そうな子だ。私たちには子供が生まれなかったが、やはり子供はいいね」

「そうだな・・・どこからか子供を貰うか」

「子供はやはり血がつながっていないと・・・」


 波江はこれからの生活について千恵に話した。そして京太、菊枝夫婦の手伝いをすることと波江が仕事に出かけている間の留守番をすること。そして千恵は聞かれたら自分の親戚と答えること、この三つを守ることを約束させた。千恵は「必ず守ります」と、これから生活を共にする波江の目をまっすぐに見詰めて答えた。「それじゃ指きりげんまん」

 朝餉の前の農作業に取り掛かった。今迄は一人でやっていたが、今日からは二人だ。キュウリ、ナス、インゲンを収穫する。今晩お店に出す分と二人の朝餉分を取ると笊が一杯になった。

「今朝はこのくらいでいいわ。家に帰りましょう」

 波江は台所に立ち、朝餉の支度にとりかかった。

 キュウリの塩もみ。ナスの味噌汁。インゲンは茹でて鰹節を振りかけた。大根餅を焼き、海苔で巻いた。

「さあ、食べましょ。お餅はお腹持ちがいいのよ」

 千恵は食事の前、聞いた。

「おばちゃん、食事感謝のお祈りをしていいですか。」

「いいわよ。どんな風にお祈りするの」

 千恵は目をつぶり、言った。 

「天の神様、今朝の食事を与えてくださり、ありがとうございます。今日も一日おばちゃんが元気に働けるようお守りください」

「千恵ちゃん、誰からそのお祈りを教わったの」

「お母さんから。お母さんはいつも祈っていたの」

「そうなの・・・でもその食事感謝のお祈りは千恵ちゃんとおばちゃん二人だけの秘密よ、とても大切な秘密」

「おばちゃん、ありがとう。秘密だね」

 波江は会ったこともない、もうこの世で会うことのできない千恵の母親のことを思った。

「どんな気持ちでこの子を残して逝ったのだろう。・・・この子は私が守らなければならない」

 朝餉の後、食事の後片付けを千恵と一緒にした後、波江は手早く身支度をして上野の「花橘」に出かける。

「千恵ちゃん、お留守番お願いね。それから叔父さん、叔母さんの農作業の手伝いも」

「はい。おばちゃんも気をつけて」


 波江は平戸から江戸に出て来て以来、ずっと一人暮らしだった。家族というものがいなかった。朝、出かけに送ってくれる人、夜、家で待っていてくれる人が居ることがどんなに幸せなことか、今噛み締めている。気持ちの張りを感じている。しかし、喜んでばかりもいられない。キリシタン禁止令が最初は幕府直轄領だけであったのが、今や全国に広がっている。江戸では最近密告でキリシタン五名が火あぶりになった。

 波江は言動に一層気をつけなければ、と自分に言い聞かせた。今迄は私だけだったが、これからは千恵も守らなければならないのだから。


 花橘の暖簾をくぐった波江はお客さん商売の表情に切り替えて、

「おはようございます」

 珍しく店主の柴橋和左衛門が店の奥にいた。「おはよう。おや、今日は特に元気そうですが、何かいいことでもありましたかな。」

「久しぶりの良いお天気だったので、つい」

 そう言いつつ、波江は「いつもの通りにしなければいけない」と心中、自分に言い聞かせた。」「いつもは昼過ぎに店に出てくる和左衛門が居るのは何か訳がありそうだ」

 案の定、柴橋和左衛門が店の始まる少し前に店の者を集めて言った。

「皆も知っている通り、お上はキリシタン禁止令を出し、その徹底を計っている。今日逃げているキリシタンの似顔

絵が配られてきた。お客の中の似た者がいたら近くの番所に知らせるように、とのことだ。良いかな」

 店の者は声を揃えて「承知しました」と声を揃えて返事した。

 店の小女たちが話している。

「切支丹屋敷の牢屋から逃げ出したんだってさ」

「あの監視のきびしい牢屋から良く逃げられたわ」

 和左衛門がたしなめるように「無駄口はやめなさい」と小女たちを叱った。

 波江は努めて平静を装った。逃げたキリシタンに心当たりがあった。しかし、その思いをこころの一番奥にしまい込んだ。「いつもの通りにしていなければいけない」


 朝の浅草寺のお参りを終えた参拝客たちが伝法院通りに流れてくる。

「ああ、ここ」と言い交わしながら、近在の商家の婦人たちが店に入ってくる。

 今日も忙しくなりそうだ。前掛けの紐をしっかり締め直した。

 波江は年配の婦人たちのあしらい方を良く心得ている。常連客には名前を呼んで接しているので一層評判がいい。

「藤井様の奥様、今日はお早いお参りですね」

「ええ、そうなの。やっと娘に元気な子供が生まれて、その御礼に来たんです。初孫なの

よ。男の子」

「そうですか。おめでとうございます」

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