時代小説「欅風」(2)初物
「三福」の暖簾を潜り、店に入ると、まだ時間が早いせいか、女将の波江が大皿に料理を盛り付けていた。「いらっしゃいませ。戸部様。今日は少し早いですね」波江は明るく微笑んで、新之助に視線を送った。
「今日は気分を変えたくてね。お勤めはそこそこで切り上げて、大川の堤を歩いて川風に吹かれていたんだ」
「お勤めで何か嫌なことでもあったんですか」
「うむ。ちょっとな」
波江はそら豆をサッと茹でて、塩を添えて、小皿に乗せて新之助に手渡した。
「お酒は何にしますか」
「酒は何でもいい。辛口で頼む。おやそら豆の今年の初物かい」
「そうなんですよ。少し未熟かもしれないけど」
新之助はお猪口で一杯あおった後、小皿のそら豆に手を伸ばした。
「うまい!この塩をつけて食べると何とも言えないな」
「お口にあって良かった。元気を出してくださいな」
波江は板橋の方に住んでいると聞いたことがある。加賀藩の下屋敷がある近くらしい。そこで波江は家の側で小さな畑を借りて、自分で季節の青物、土物を育て、店でお客に出していると新之助に話してくれたことがあった。「青物は取れたてが一番美味しいんですのよ。それから私の店ではお客様に他所より先に初物を召しがって頂くようにしていますの。」
波江と青物の話をし始めたのは、新之助が青物組で青物づくりをして、いろいろ苦労していることを話したことがキッカケだった。青物づくりのお陰で親しく話を交わすようになった。
「どんなものをつくっているんですか」
波江は内緒事を打ち明けるかのように、小声で
「そうね。茄子、いんげん、大豆、ゴマ、ネギ、真桑瓜、カブ、ゴボウ、紫蘇、ミツバ、茗荷、ラッキョウ、水菜、里芋、大根、キュウリ、かぼちゃ・・・。ここお江戸で手に入る種とか苗ならなんでもやってみたいわ」
「随分やっているんだね。種とか苗も安くないだろうに」
「そうなの。だからご近所のお百姓さんから、分けていただいています。それから育て方も教えていただいているわ」
「それは助かるな。美味しい元気な青物をつくるには知識と技術が欠かせないからね。わが藩の下屋敷では「農業草書」を購入して、それを見ながら青物を作っているが、なかなか本だけでは分からないことが多い。実際に教えて貰うのが一番だ。」
「肥料はどうしているんだい。元肥とか追肥とか」
「それもお百姓さんから分けて頂いています。ただ貰うだけでは申し訳ないので、堆肥づくりは私も手伝っていますよ。秋にはお百姓さんのお手伝いで屋敷林の落ち葉集めで大忙しでした。」
波江は見た感じは百姓の娘でない。立ち居振る舞いにどこか武家の生まれを感じさせる。
歳の頃は三十歳前後だろうか。どんな暮らしをしているのか、家族はいるのか、いないのか、わからない。家族の話をいつも上手に避けているような感じがする。新之助が波江に惹かれるのは、今の妻女と一緒になる前に好きだった女性とどこか似ているところがあるからかもしれなかった。横顔をふと見つめて、慌てて視線をそらすことがある。波江はそれに気付いているのだろうか。
新之助は棚に並んでいる大皿から、大豆と昆布の煮物、油揚げとひじきの煮物、精進揚げをそれぞれ小皿に取り分けて、酒のつまみにした。
他の客が入ってきたので、波江がその客と話を交わしている。「あら~。本当ですか、その話」と言う波江のびっくりした声が耳に入った。
「それだけじゃないんだ、初鰹の十七本のうち魚屋が仕入れた八本のうち一本を中村歌右衛門が三両で買ったんだとさ。下働きの女の一年の給金と比べてご覧。約三倍だよ。途方もない話さ。江戸っ子の初物好きも度が過ぎてるな」
その客はどこかの店の主人風だった。三福を贔屓にしていて、時々顔を見る。江戸の経済の動きに詳しそうだ。
新之助は精進揚げを食べながら、波江と話す機会を待っていたが、主人風の客は話が好きらしく、と言いより波江の聞き上手に気分を良くして話を続けている。「わしは初物狂いではないが、ここの店は青物の初物を他の店よりも早く、それでいて手頃な値段で食べさせてくれる。お陰で長生きできます。礼を言いますよ」
新之助はこの客は青物づくりの苦労も知らないで調子のいいことを言っている、と内心で呟いたが、波江と話す機会がなかなか戻ってこない苛立ちもあった。
そんな気配を感じたのか、波江が新之助の前に戻ってきて、
「どうですか、ご気分は変わりました? 実は今日は茗荷とラッキョウの初物がありますの。戸部様に先に召しあがっていただきたいわ。でも数に限りがあるので、ごめんなさいね。」
波江は小皿にラッキョウを数個、赤味噌をつけてそっと新之助に勧めた。新之助も小さい声で「これはありがたい。それでは頂く」
酒の肴を食べ、初物を頂き、お銚子二本を空けたところで、新之助は席を立った。なぜか、波江の働く姿を見なが
らお皿を洗う音を聞いている内に「自分はこうしてはいられない」という気持ちになった。
ほろ酔い気分で新之助は大川の堤を通り、下屋敷への帰り道を急いでいた。明日はどうやら雨らしい。畑作業の準備を今晩中に済ませておかなければならない。それに評定の後そのまま下屋敷を出てきてしまったので、今日の帳簿付けを夜なべ仕事になるが、やっておかなければならないとことなどを思い出していた。そして一つ気にかかることがあった。それは同僚の木賀才蔵のことだった。
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