時代小説「欅風」(20)木賀才蔵 自殺未遂
千住の普請場に居る新之助のところに下屋敷から使いが来た。使いによると才蔵が首を吊って自殺を図ったが、未遂に終わったとのことだった。新之助は普請奉行の谷川重太郎に断って急ぎ下屋敷に戻った。布団に寝かされている才蔵は、新之助の顔を見るなり、顔を背け、「すまん」と言った。側に座り、才蔵の手をとると身体の小刻みな痙攣がまだ続いていた。新之助は、ここは自分と才蔵二人だけにして欲しいと頼んで人払いしてから才蔵に声をかけた。
「才蔵、びっくりしたぞ。でも良かった、命を取り留めたんだからな」
才蔵は擦れた声で
「まことに面目ない。武士にあるまじきことをしてしまった。死にぞこないだ。やはり俺なんて生きていない方がいいんだ」
「それは違うぞ。才蔵。人間一人ひとり、皆生きる意味があるんだ。以前郷助の家に呼ばれた時、郷助が言っていたではないか。」
「それは分かっている。しかし俺にはどうも生きる力が無いらしい。根元が腐っているようだ。元気になったと思ってもそれが続かない。その内、やっぱり自分は駄目なんだと思ってしまう。そう思うと何もかも白けていってしまうのだ」
「才蔵、何もかも忘れて今晩はゆっくり寝ろ。酒でも飲んで。俺も付き合おう」
才蔵はその時、遠くを見るような目でこう言った。
「新之助、俺はこれで死ねなくなった。死が怖くなったのだ。だが生き続けることは死ぬより辛いことだな。」
「どういうことなんだ」
「首を吊っている時、俺は、生きている時の自分が死んだ後の自分に厳しく問い詰められているのを見た。死んだ後の自分が問うのだ。『お前の人生とは一体何だったのか。お前とは一体誰だったのか』と。その質問に生きている時の自分が立ち往生している。
この問いにお前は真実を持って答えなければならない、そう迫っていた。何だか理屈っぽい話のようだが、俺はそう言われて、まだ死ねないと叫んだんだ。その時カラスのような大きな声が聞えた。気がつくと藤田が俺の名前を呼び、身体を揺さぶっていた。」
高橋信左衛門は上司の高田修理と相談し、気分転換を兼ねて才蔵を郷助宅で預かって貰うことにした。才蔵は留守を預かっている次郎太の仕事を手伝うこととなった。郷助が千住の普請場の仕事に入ってからというもの家を空けることが多くなった。次郎太も今迄以上に忙しくなっていた。
次郎太は才蔵を迎えて言った。
「明日から野良に出て一緒に働くだ。服装はもっと気楽にして、兄さんの野良着を着たら良かんべ」
次郎太は早速翌朝から才蔵を連れて畑に出た。畑の大根の虫取りから始めた。次郎太はそれまで乗っていた車椅子を
降りて、太股迄しか無い足で畝の間を歩き始めた。両腕を足のように使い、まるで上半身が土の上を歩いているかの
ようだった。そして太股の先が痛み始めると、這い蹲って前へ前へと動いていた。手は休み無しに虫を取り、手の平の付け根で殺していた。
「虫が出るのは一時ですだ。今は大変だけどしっかり虫を取れば、一旦はボロボロになった葉っぱでも元通りになりますだ」
才蔵は呆気に取られていた。そして内心「そこまでして働くものか」と呟いていた。才蔵も一緒に虫取りに入った。
一反分の半分程に植えられた大蔵大根の虫取りで、今日二人がかりでそれでも一日かかるだろう、と次郎太が言う。
そして「農作業は根気勝負ですだ」
とも。アオムシ、カブラハバチが葉の表裏についている。「青物、土物毎にそれぞれつく虫がいるだよ」と時々声をかけてくる。
才蔵にとってはやっと昼飯になった。タケが用意してくれた弁当を開けた。雑穀の混ざった握り飯、梅干一つ、カブの漬物、なめ味噌そして干瓢の甘く煮付けたものが入っていた。
竹筒には井戸からのくみ上げ水。
畑の上の方にある小さな神社に上がる石階段に腰を下ろし、次郎太と才蔵は握り飯にかぶりついた。
「うまい!」
「働いた後は、何でもうまかんべ」
彼方に見える山を見上げながら、才蔵は言った。
「それにしても次郎太さんは頑張りますな」
「兄やんが戻って来た時に、『次郎太、留巣を良く守ってくれた』そう言ってもらいたいからな。その一心で働いているだ。こんなふうに働けるようになったのも、兄やんのお陰だから」
「郷助さんは偉い兄さんだ」
「俺は戦さで不自由な身体になった時、死ぬことばかり考えていた。もう駄目だと思ったんだ。家族に迷惑はかけられねえ、と。そんなことをつい口走ったら兄やんが怒った。物凄い顔をして言ったんだ。
「ちっとも迷惑じゃねえぞ。お前はウチの家族にとってなくてはならねえ大切な弟だ。お前の分ぐらい兄やんが食わせてやる。何とかして働けるようにしてやる。大丈夫だ。変なことは考えるでねえだ」
次郎太は言葉をつないだ。
「そして兄やんは毎晩毎晩野良仕事の後、疲れているだろうに、作業場で図面を引いたり、何か試作品のようなものを作っては壊し、作っては壊ししていた」
ある朝俺が目を覚ましたら、兄やんが飛んで来て、
「次郎太、車椅子ができたぞ。乗ってみてくれないか」
「俺は這いながら作業場に行き、車椅子に乗った。その時の嬉しさと言ったらなかったなあ。車椅子に乗ればどこでもいける。車椅子を停める時、坂道を登り降りする時には舟の櫓のようにシン張り棒を使う。俺は兄やんのために、家族のために働こう、そして生きていこう、そう心に誓っただ」
才蔵はその時思った。今迄自分は自分のことだけ考えてきた。自分の願い、悩み、苦しみのことばかり考えていた。
誰かのために生きる、などとはついぞ考えたことがなかった。
誰かのために生きる幸せなど思い描いたことなど、なかったのだ。
夕餉の時、タケが今日一日の野良仕事を労うかのように、食事の前の茶を勧めながら
「慣れない仕事でさぞかし疲れただんべ。風呂に入って、今晩は早めにお休みくだせえ」
風呂では孝吉が背中を流してくれた。
布団に身を横たえた才蔵はなぜか目を瞑ると涙が滲んでくるのだった。
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