時代小説「欅風」(21)狭野藩 切手不調
天岡文七郎は、今日は庄屋の平清次郎ところに行き、ひざ詰めで切手の説明をした。
「理屈は良く分かりますが、実際それができるかどうかは別問題です。切手は要するに藩札ということでしょうか。藩札なら他の藩でも藩の不足のために使われています。去って還らざる、ということになるのでは。そうしますと藩札は、結局はただの紙切れとなってしまいます」
天岡文七郎は、この度の切手発行と運営の仕組みを紙に描いて図にしたものを懐から出し、この切手の目的は民との貧しさを、上下心を一つにして乗り越え、民が豊かになり、そしてその結果として藩が豊かになり、今後幕府より藩が普請の命を受けても何とか自力でやりおおせる生産力を涵養するものであることを、図の上を指で示しながら説明した。
「よろしいでしょうか。我が藩の民にはモノを作り出す力がありますが、モノを作るためにまず材料を仕入れなければなりません。今はその材料を仕入れる元手がなく、多くの民が遊んで、困っている状態なのです。たとえば一人の女が百文の綿を買い、糸を引けば大体百三拾文となります。千人の女が一日糸を引けば百両の富を生み出し、三十両の利を生み出すことができるでしょう。誰にどれだけ切手を貸し付ければ良いか、それを判断し、決めるのは藩政府ではなく、各地区に置く物産総会所です。その物産総会所の責任者にはそれぞれの地区の庄屋の皆さんになって頂きたいのです。物産総会所は生産した者と購入する者との売買の仲介もします。狭野藩の生産に関わるものすべてに切手を貸付けることにします。この切手は十三年間の元利返済で利息は一分につき年三文と、格段に低い金利となっております。要するにこの切手はまず生産活動に使われて物産になり、販売されて正貨となっていくものです。正貨が増加していけば切手の必要もなくなっていきますので自ずから減少していきます」
庄屋は先ほどから心の中に湧いていた疑念を口にした。
「モノを作っても売れなければどうにもなりません。モノの出口というか、どこに我が藩の生産物を買ってくれるところがあるのでしょう。藩内で売ったり買ったりしてもそれ程大きな富は得られないでしょう。良い顧客をどうやって見つけるのですか?
皆のものが今迄一番苦労してきたことです。天岡様には何か秘策がおありなのでしょうか?」
天岡文七郎はよくぞ聞いてくれたという面持ちで語り始めた。
「良い顧客を見つけるためには、まず良い品質のモノを作らねばなりません。こころを込めてつくるのです。優れた作り手を先生にして技量を磨いていくのです。その上で良い品質の証として、他国に売るものについては、藩政府が品質保証を致します。商品に問題がありましたら藩が弁償し、良い商品と交換します。次にどこでどのようなものを誰が欲しがっているかを知ることが大事です。例えば北海道では漁師が雨の中で作業するために蓑としっかりした草鞋を必要としていますが、知っての通り、北海道では米は栽培できないので稲藁が手に入りません。我が藩で蓑、草鞋を北海道の漁師のためにつくれば、間違いなく売れます。どこでどのようなものを誰が欲しがっているか、廻船問屋と親しくなればおおよそのことは分かります。その中で我が藩で作っているもの、作れるものを先方の要望に合わせて加工し、売れば良いのです。蚊帳生地など最近蚊が多くなってきた夏向きの商品として売れ始めていると聞きました。また我が藩は幸いなことに堺に接していますから、堺から我が藩の生産物を、例えば、蚕の卵、生糸、そして生糸醤油を外国に売ります。外国に売る場合は貿易と言いまして荷為替を組んで輸出し、見返りに銀を得ます。ポルトガル、エゲレスでは日本国の生糸など大層人気があります。私は平戸のポルトガル商館に赴き、詳しく話を聞きました」
庄屋の平清次郎は黙って聞いていたが、穏やかな表情で口を開いた。
「この度の江戸大川の普請で藩が物入りなのは、私も承知しております。ただ私共にできることには限度があります。しかし、天岡様のお話を伺い、貿易のことなど良く分からないこともございますが、準備周到なこと、ご決心の在り処など得心が行きました。ここは天岡様に賭けることにしましょう」
「平殿、かたじけない。今迄他の地区の庄屋の皆さんに一人一人話をしてきましたが、首を縦に振ってはくれなかった。しかし、今日、今迄の努力が報われたような気が致します。」
「天岡様、必ず成功させるとお約束ください」
「お約束します。命に代えても」
「それでは切手百両を手前共がお引き受けしましょう。その見返りとして米百石をお渡し致します。どうぞこの切手の裏づけとなさってください」
数日後、天岡は五十石を江戸下屋敷に送る手配をしていた。江戸大川千住普請場の人足への支払い約定日が、十日に迫っていたからだ。天岡は平からの百石には手をつけず藩の貯蔵米からやりくりをして送ることを勘定方に厳しくえた。
「切手の裏づけとなる提供された米には一粒も手をつけてはならない」
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