時代小説「欅風」(3)青物組相手・木賀才蔵
青物組は二人一組で農作業をするきまりだ。新之助の相手が木賀才蔵なのだが、才蔵は近頃気の病というか、元気がない。時々「自分は生きていてもしょうがない」とか「死にたい」と口走ることがある。鬱々としているが、かと言って寝込む程ではない。下屋敷の勤めは国許と違い、出殿勤務と留守居勤務というものがなく、起きてから寝るまで下屋敷勤務が続く。才蔵は何とか最低限の仕事はできるが、自分から進んで何かをしようという気力が萎えてしまっている。
新之助は屋敷に戻ると才蔵のところに直行した。
「すまん。いきなり屋敷を飛び出して済まなかった。俺の性格だろうな、自分が思っていることを全部言わないとどうにも収まらないんだ。そのくせ言った後で後悔している」
才蔵は「おヌシは元気でいい。ところで明日の農作業の段取りを私は気にしている。何をやったらいいんだ。」と疲れたような表情で新之助に目を向けた。「ところでおヌシ、飲んできたのか」
それには答えず、新之助は「明日は雑草を引いて、それから畝の間を中耕だ。今頃は雑草が湧いてくるように生えてくる。雑草も小さい時に抜けば、後が楽だ」
明け六つに起床して早速農作業に取り掛かることにした。農作業の時間は一刻、てきぱきやらなければ仕事を残してしまう。
才蔵は「それでは私はこれで寝る。お先に失礼」と自分の寝間に戻っていった。新之助は行灯の側に寄り帳簿付けを始めた。そろそろ暮れ四つだ。帳簿付けは毎日やらなければならない。どんなに忙しくても、どれほど疲れていようとも、その日その日にやっておかなければならない仕事なのだ。新之助は一度「後でまとめてつければいい」と安易に考え、大きな失敗をしたことがある。ある時は泣きながら帳簿付けをした晩もあった。
今日は幸いに収支項目が少なかったので、短時間で済んだ。井戸の水で身体を洗い、自分の寝間に向かった。時の鐘を聞き漏らすことのないよう早く寝よう、薄い布団を引き上げながら、そう呟いた新之助だったが、なぜかなかなか寝付けなった。妻の三枝は息災だろうか、そして八重の目は少しは良くなっただろうか。新之助は思い出していた。国許の大阪の南にある狭野藩の家で家族三人、しばしの別れの夕餉をとっていた時のことだった。八重が淋しそうにしていた。「父上は本当に江戸に行かれるのですか。」三枝が「三年のお勤めですから、父上にはまた直に会えますよ」と八重の両手をとって、まっすぐに八重の目を見つめた。八重は黙って頷いた。・・・あれからもう五年になる。世の中はなかなか願い通りにはいかないものだ。暮れ四つ半の巣鴨子育稲荷の鐘の音がかすかに新之助の頭の片隅で響いていた。それがなぜか八重のすすり泣きようにも聞こえた。
翌朝、案の定雨が降っていたが、蓑をつけ畑に出た。二人で長さ百五十尺、三本の畝の雑草を一本一本抜いていった。才蔵は単調な作業であれば問題なかった。額が濡れているのは雨のせいばかりではなかった。畝の間を耕して、朝の農作業を切り上げ、身体を拭き朝餉をとった。朝飯前とは良くいったものだ。朝飯がうまい。出殿してすぐ油屋が来た。油屋は下屋敷に入れている行灯用のエゴマ油の値段を上げさせてほしい、とわざわざ主人がやってきた。今年のエゴマの収穫が悪天候のため不作で値段が上がっているからだと言う。「上げたからといって決して手前どもの儲けになる訳ではございません。品不足で仕入れ価格が大層上がりました。手前どもの儲けはわずかなものでございます。なにとぞ値上げをお受け入れくださいますよう、この通りお願いします。」油屋の主人は深く頭を下げて、新之助をちょっと慌てさせた。新之助の頭の中を高橋信左衛門の声が過ぎった。
「自分の一存では決められぬこと故、今日の件は後ほど返事をさせてもらう」
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