時代小説「欅風」(31)波江 孤児院開設 その一
ある朝、波江と千恵が慈光和尚の寺に畑で作業をしていた時、和尚が小さな男の子を連れてきた。背も低く痩せていた。
「ちょっと訳があってこの子を預かったのじゃが、寺でぶらぶらしているのもなんなのでこの子に農作業を教えてあげてくれんじゃろうか」
波江は直ぐに答えた。「教えてあげるなんておこがましいですが、いいですよ。坊や、お名前は何ていうの?」
男の子は俯き加減に「幸太、っていうんだ」と答えた。
「おばちゃんたちは毎朝明け六つの時から農作業をしているのよ。朝早いけど大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「それじゃ明日からね」
慈光和尚が後で寺の方に寄ってほしいと言い残し、幸太を連れて戻っていった。波江は千恵の方を振り返った。千恵は黙って幸太の後姿を見ている。
「千恵ちゃん、明日から三人で農作業よ」
「そうだね、おばちゃん」
「何か気になることがあるの?」
「ううん、何でもないわ」
農作業を終えて、波江と千恵は寺に寄った。慈光和尚は「お疲れのところ済まんですな」と言いながら、お茶と香の物を勧めた。手拭いで汗を軽く押さえながら、波江は茶を頂いた。千恵は幸太を見つけ、幸太の方に歩いて行った。慈光和尚はこんなことを呟くように言った。
「最近、孤児が増えているんじゃ。両親に死別したとか、また親からの虐待に耐えかねて逃げてきたとか、親が事業に失敗して一家離散したとか・・・事情はさまざまじゃが、可哀想なことだ。幸太の場合は一家離散なのじゃよ。母親が幸太を連れて寺にやってきて、『勝手なお願いですが、暫くこの子を預かってくださいまし』と言って逃げるようにして立ち去ってしまったのだ」
「そういう世の中なんですね」波江は何か話している千恵と幸太の様子を見ながらぽつんと言った。そこに照枝がやってきた。
「おはようございます。朝から農作業、ご苦労様ですね」
「和尚様と何かお話でしょうか。それでは私は失礼して」と波江が腰を浮かせたのを留めるように和尚が言った。
「久し振りで三人でゆっくり話しませんか。拙僧の方は大丈夫だが、照枝さんはいかがかな」
「大丈夫ですが、波江さんはどうですか」
「半刻ぐらいであれば大丈夫です」波江は千恵と幸太に目をやって微笑んだ。
照枝はお茶を一服飲んでから和尚に尋ねた。
「私にはもうすぐお迎えがくるでしょう。死ぬ前に和尚さんにどうしても聞きたいのは『死んだらどうなるか』ということです。いえ、別に怖い訳ではないのです。人は一人であの世に行かなければならない、その寂しさが堪らないのかもしれません。」
和尚は答えた。
「拙僧はまだ死んだことがないので、確かなことは言えませんが、お師匠様からは仏様の慈悲の中、縁(ゆかり)のある人達が、向こうの世界でも待っていて迎えてくれると教えられています。向こうの世界でも一人ぽっちじゃないんですな。そして今生で学んだことを向こうの世界で活かし、輪廻転生を続け、人として成長していく、と聞いています。ただしこれは現世で悟ることのできなかった者のことで、仏陀は有るとか無いとかの元になる妄執を断って有無の分別のないありのままの無分別の世界に入るよう教えています。無分別の世界に入ったものは生まれ変わることはないと教えておられます。そのためには妄執を断ち切る修行が必要ですのじゃ」
「和尚さんはそれを信じているのですか」照枝の問いを穏やかに受け止めながら、慈光和尚は答えた。
「人間の頭では信じ難いことを信じるのが信仰であり、それを信じられるようにするのが修行だと拙僧は思っています。やあ、ちょっとうまく逃げたような答えになってしまいましたな。」和尚は頭を掻きながら、言葉をつないだ。
「ただ拙僧がはっきり言えることは、今現在、私たちにできることは死んだらどうなるかで悩むより、今日という一日を生きること、只今現在をどう生きるかではないでしょうかな。人生は一期一会の繫がりですじゃ。今朝私たち三人がこうして会い、話ができるというのはかけがえのない一期一会ではないですかな」
照枝は迷った挙句、思い詰めた表情で質問をした。
「確かに一期一会です。私もそう思いますが、一期一会にはどこかお会いできたという喜びと共に別れの寂しさ、悲しさが漂っているように私は感じるのです。和尚さんには大変申し訳ないのですが、耶蘇の教えではイエズス様を信じる者にはこの世にあってもあの世でもいつも一緒に居て下さると私の若い頃に聞いたことがあります。この世でもあの世でも同行二人だと」
「それも信仰ですじゃ。拙僧も若い頃、実はバテレンの話を聞いたことがあります。イエズス様が十字架の上で人々の罪を背負って死に、復活したという途方も無い話じゃった。それは得心できなかったが、イエズス様が貧しい人々、差別されている人々のために闘ったのだということは良く分かった。その気持ちは本当に尊いものだと思いますな。しかし、いつの時代にも悲しいことに闘いには犠牲がつきものじゃ。
信仰にはその底に時の権力に対して貧しい人々、差別されている人々の側に立って守るという性質が本来ありますのじゃ。そのために弾圧が起こるのじゃろうな」
今迄黙って二人の話に耳を傾けていた波江が小さな声で言った。
「それではこの世では、信仰の力では平和な世の中が来ないということなのでしょうか」
ややあって和尚が答えた。
「平和とはなんでしょうな」
照枝も言った。
「私たち女性は戦いの無い世の中を求めています。貧しくとも、日々安心して暮らせる生活を望んでいます。夫が戦に駆り出され、帰って来ないという世の中はこりごりです。
息子が帰って来なかったという母親が私の廻りには沢山いました。家族を失うというのは一番辛いことです。」
照枝は目を伏せ、涙ぐんでいた。
「この話の続きはまたするとして、今朝はこのくらいにしておきましょうかな」
和尚は空を見上げた。薄曇の空をスズメが飛んでいる。
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