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時代小説「欅風」(4)狭野騒動

 狭野藩は石高一万石の小藩ではあったが、元を正せば戦国時代の英雄を藩祖に持つ由緒ある藩だ。豊臣秀吉に攻められ、主戦派と和平派の評定が続く内に兵糧攻めの結果、已む無く降伏。主戦派は切腹となり、和平派は切腹を免れ、高野山に流された後、秀吉の計らいで大阪の南の地に藩土を与えられた。藩士と農民、商人、手工業者を合わせて人口わずか約一万二000人であった。

 現在の藩主、氏安は元和元年、先代の藩主に代わって第三代藩主となった。先代の藩主、氏和は酒毒で政務を行うことがかなわず、結局隠居となった。氏和は父が相模小田原の藩主であった頃、甘やかされて育ったためか、大阪狭野の地に来てからも頻りに小田原時代のことを口にして「あの頃の当家は相模の雄であった。大きな海に面しうまい魚も厭というほど食べられた。女どもも大勢いた。ところが今は何と落ちぶれてしまったことよ」。嘆くばかりであった。その憂さを晴らすかのように酒に溺れていった。

 そのため江戸城へのお目見えも出来ないぼろぼろの心と身体となってしまった。これでは折角生きながらえたお家が断絶しかねない、危機を感じた下級武士達が血判状を持って藩の飯野家老に直談判をした。内紛が起こっていることを江戸幕府に知られてはならない、飯野家老は氏安を担ぎ出し、氏和に禅譲を迫った。氏和は既に正常な判断が出来なくなっていたが、飯野家老は一芝居打って、氏和が素面で正気の時に禅譲を承諾したという証人を立てた。他二人の家老だ。江戸幕府は渋々この家督相続を認めた。第一代藩主氏猶が徳川家康の娘婿ということが最後は決め手になったようだ。第二代将軍秀忠は家康の決定に渋々従った。翌年元和二年家康はこの世を去ったから危ういところであったが、猜疑心の強い、怜悧な秀忠の天下になったからにはこれから何が起こるか知れたものではなかった。


 氏安は先々代の藩主の側室の子供として生まれた。そのため長い部屋住みの境遇に置かれた。氏安の母は「これからは今迄のように戦場に出て手柄を上げるということは叶わぬ世となります。戦乱の世はもう終わったのです。武士にとって新しい生き方をしなければならない世の中なのです。武だけではなく文が大切になりますよ。人として在り様を整えなさい。そして日々の暮らしに落ち着いて目を向けることです。」繰り返し氏安を諭した。その母も流行り病で世を去った。母は氏安の手をしっかり握りながら「お前様には今迄随分と肩身の狭い思いをさせてしまった。そんな母を許してください。人の世は不思議なものです。お前様にもきっと陽が当たる時がきます。母はそう信じています。草葉の陰で祈っていますよ」それが最後の言葉だった。


 氏安は何もすることもないので、ということは、逆に何をしても良いので、狭野藩の領国の中を歩き回り、農民、商人そして職人達に気軽に声をかけ、ある時は田圃の畦道に座り込んで農民と話しを交わし、商店の中に入り込んで店の番頭とお客のやり取りを見たり、またある時は狭山池の水道木管を作っている作業所に行き、職人にいろいろ質問をしたり・・・そんな日々を送っていた。領民の間で「氏安様のような私達の暮らしと仕事を良くご存知の方が殿様になってくだされば良いのに・・・」そんな囁きが交わされていた。


 弱冠二十歳の氏安は藩政改革に立ち向かっていった。氏安は飯野家老ら重臣に自らの決意を伝えた。「何としても狭野藩を存続させなければならない。既に戦乱の世は終わったのだ。大御所は新しい年号を元和と名付けられた。これはこれから平和が始まるということだ。江戸幕府が日本全国を治め、もう戦乱を起こさせないという決意でもあり、大号令でもある。皆の者にこのことをしかと伝えよ。わが藩はこれから徒に昔年の栄華を追い求めてはならぬ。そのようなことは空しいことじゃ。既に徳川の世なのだ。わが藩は将来に向かって新しい道を歩まねばならぬ。今度こそ間違いは許されぬ、皆の者、良いな。」

 若い藩主の気負いを危ぶむ声が藩の武士の年配者からも出ていた。「物事は理想通りにはゆかぬものじゃ。藩政改革が失敗した時には誰が責任をとるのだ。」

 氏安は飯野家老と他二人の家老ともじっくり話し合った。家老達から出た条件は「決して焦って急がれないこと。そして藩主の新しい考えを分かりやすい形で領民に伝えてほしい」の二つであった。

 氏安はこの二つの条件を喜んで呑んだ。氏安は年齢の割りにはさばけていた。


 その後一ヶ月経った時、新しい藩主による藩政方針五ヶ条が打ち出された。

 第一。武士は領民の師となり友となるべし。

 第二。武士もその家族(妻、子弟)もすべからく農作業、手仕事に励むべし。

 第三。わが藩独自の優れた特産品を開発すべし。

 第四。わが藩では武士はもとより農民、商人も読み書き、和算、など学習に励むべし。

 第五。わが藩では身分の違いを超えて、大いに評定し、その上で決すべし。

 藩の武士達は、氏安の姿勢を高く評価はしたが、理想に走りすぎはしないかと危惧の念を持ったが、まずは氏安の手並みを拝見しようと敢えて異を唱える者はいなかった。下級武士の中には論功行賞を期待して、藩政に口出しできる機会を窺う者もいた。氏安は下級武士の話に喜んで耳を傾けたが、言いなりにはならなかった。

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