時代小説「欅風」(48) 波江の苦悩と逃れの道
ある月も雲に隠れた晩、波江は戸にシンバリ棒を掛けるために土間に下りた。その時、人の慌しい足音が聞こえた。波江の住んでいる離れの近くに人がいるらしい。波江はそっと戸を開けて、外を覗った。誰もいない。外に出てなお確かめようとした時、家の影に蹲っている人の姿があった。足を怪我しているようだ。
波江は聞いた。「大丈夫ですか」
男は「大丈夫です。」そう答えながら周囲を見渡している。
向こうの方で声がする。「キリシタンが逃げているぞ。早く見つけろ。このあたりにいるはずだ」
男はその声に弾かれるように立ち上がり、逃げ始めた。
波江は思わず声を挙げかけたがたが、そのまま呑み込んだ。家の中には千恵がいる。
男は足を引きずりながら、走り去った。波江はすぐ家の中に戻り、戸を閉め、シンバリ棒を掛けた。
暫くして追っ手が殺到して来た。
じっと耳を澄ましていた。遠くの方で大きな人声がしている。
波江は思った。「捕まったのかもしれない。私はどうして助けようとしなかったのかしら。」
その晩、波江は寝付けずに自問自答していた。そして明け方近くに眠りに落ちた。
夢の中に出てきた人がいる。
「先ほどあなたが見たのはキリシタンだ。彼は逃げている。まだ捕まってはいない。私は彼が捕まらないことを願っている。捕まれば佐渡金山に送られ、生涯陽の光を見ることはないだろう」
波江は思わず聞いた。
「あなたはどなたですか?」
その人は答えた。
「私はあなたとともにいつもいるものだ。それ以上の答えはない。ところであなたに話しておきたいことがある。
あなたはキリシタンだ。先ほどのキリシタンのように、あなたがキリシタンであることが世間に知れたら、あなたは捕まる。千恵とも別れなければならない。」
「それは私がいつも恐れとして胸の底に抱き続けていることです」
「京司さんも菊枝さんもあなたを匿ったという理由で厳しいお咎めを受けることになるだろう。あなただけの問題ではなくなる」
「あれほどお世話になったのですからご迷惑をお掛けすることは本当に申し訳ない気持で一杯です」
その人は言った。
「近い内にこの地域全体の住民に対し、取調べが始まる。この集落ではあなたがお世話になっている隣の寺の慈光和尚が取調べを担当することになった。和尚はあなたの身を案じている。そしてあなたがキリシタンではないかと感じている。疑っているのではないのだ。心配し、案じているのだ。」
波江は聞いた。
「それでは私はどのようにしたら良いのでしょうか」
その人は聞いた。
「あなた自身はどうするつもりでいるのか?」
波江は答える。
「私は主のお名前を否むことはできません。しかしキリシタンであることを告白したら私の周囲の大切な方たちに大変なご迷惑をお掛けすることとなります。私はこの二つの思いの中で引き裂かれています。私には誰も悩みを打ち明け、相談する方がおりません・・・
しかし、私は主のお名前を否むことはできないのです」
その人は優しく、波江に諭すように言った。
「私はあなたに生きていてほしいのだ。あなたは知っているだろう。ペテロは三度、最後は呪いまでかけてイエスを知らないと言い、裏切った。十字架に掛かった時、ヨハネ以外の弟子は恐れて逃げ去ってしまった。・・・私を否んだのだ。」
波江は夢の中で小さく叫んでいた。
「主よ。私にも同じようにせよ、と仰るのでしょうか」
「私はあなたに生きていてほしいのだ。誰も入ることのできないあなたの心の中で私を信じ続けてほしい。あなたの心の中までは誰も支配することはできない。あなたの心は自由なのだ」
「主よ。それでは今迄、あなたの御名を告白して、殉教の死を遂げた人々に私は何と言って申し開きをしたら良いのでしょうか」
その人は言った。
「波江。私にはあなたのために立てている計画があるのだ。いずれ私のために死ぬ時が来る。しかし、今がその時ではない。私はあなたに生きていてほしいのだ。私のために今迄数え切れない人々がこの地上で殉教の死を遂げた。その死を私が悲しまずにいたとでも、波江、あなたは思うか。私はそのようにして死んだ人々を私の栄光を持って天の御国で迎えた。しかし私が願うことは、この地上で神の国を広げることなのだ。この地上で人々が幸せに生きられるようにすることなのだ。あなたにとってこの道は困難な、茨の道となるだろう。だから私はあなたがどのようなことがあっても、私がいつもあなたとともにいるということを信じることができるよう、あなたのために祈り続ける」
波江は聞いた。
「主よ。それでは私はどのようにしたら良いのでしょうか」
その人は答えた・
「波江よ。あなたは慈光和尚のところに行きなさい。そしてこう言うのです。『私に浄土真宗の教えを学ばせてください』と。親鸞は仏教の立場で、私の教えにとても近いところにいる。これから徳川幕府はキリシタンを根絶やしにしようとしている。だから、あなたにはこの弾圧が吹きすさぶ厳しい時代を生き抜いてほしいのだ。この世にあっては浄土真宗の信徒として生きなさい。千恵にもそのように話しなさい。千恵は分別のある子です。きっと分かってくれるはずです」
波江は答えた。
「主よ。お言葉の通りに致します。あなたがいつも共に居てくださることを信じるために私もいつも心の中で祈り続けます」
翌朝、波江は朝の畑仕事の前に、早朝のお勤めを終えた慈光和尚の元を訪れ、朝の挨拶をした。
慈光和尚は言った。
「あなたの来るのをお待ちしていました」
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