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時代小説「欅風」(69)藩の祭・様子

 狭野藩は一万石のまことに小さな藩だ。そのような藩を豊かにするためには、物産の輸出だけではなく、大阪、京都など近在の町から、また村から来てもらい、お金を落としてもらえるような仕組み、施設をつくらなければならない。

 そのため年二回、狭山池での祭りを開催している。春、桜が満開の頃は狭山池に屋形舟を浮かべて、舟の中から、浮き舞台の上で演じられる芝居を楽しんでもらう。評判が良く、始まって以来毎年開催されている。今では狭山の浮き舞台ということで大阪、京都からそれを目当てに来る客も増えてきている。

 秋には盛大に狭山池で「月取り」という催しも行なっている。狭山池に映った月を衣で掬い取る縁起をかついだ遊びだ。たまたま大阪の商人が以前狭山池に来た時、戯れに上着を脱いで、舟の上から水に映った月を掬いとったところ、商売が急に繁盛し、大店を構えたという噂がキッカケになり、年中行事となった。

 狭山池に遊びにくる大阪、京都、近在の町人は懐具合が良いせいか、惜しみなくお金を落としてくれる。

 それはそれで良いのだが、旅先の開放感のためだろう、売春を求める客が跡を絶たない。狭野藩では売春を禁じている。売春のあるところ、博徒などが入り込み、治安が乱れることを藩は警戒している。また売春が横行すれば狭野藩の領内に住む子女に害が及ばないとも限らない。そのため見回り役が平服に着替えて領内巡回をしている。そしてそれらしき行為に及ぼうしている者を見つけた時には、直ちに拘束している。

 拘束された者達は嫌がらせに声高に騒ぎ立てる。

「狭野の地は女ッ気のないなんとも面白くないところだ」と。

 狭山池に遊びに来る客の大半は老人だった。大阪、京都からであれば、一日もかけないでここ狭山池に来ることができる。小高い山々に囲まれた盆地にいると町の喧騒を忘れることができる。食べ物は美味しいし、そして毎日薬草がたっぷり入った薬湯に入ることができる。また薬湯では地元の人々と一緒に入って四方山話しができる。領内は狭く、治安が行き届き、泥棒の被害もめったにない。安心して、ぐっすり眠ることができる。領内を歩くと、ところの人達が気軽に声をかけてくれる。

「ゆっくりしていってください」

 まるでわが家に帰ってきたようだ。

 家を空ける訳にはいかない、ということで夫だけを狭山池に送り出す老妻もいる。遊女、遊女を囲う旅籠がないというのは、安心だ。ということで気持良く送り出すことができる。

 人ツテに狭山池の評判が大阪、京都に広がっている。観光が大きな収入源になってきている。ある時氏安はこう言ったことがある。

「なんでもかんでも賑わえばいい、お金が落ちればいい、ということではない。そんな考えになってしまったら、人々の心も汚れ、狭野の地も汚れていく。今この狭山池、狭野の地を楽しんでくださっているお客様を大事にすることだ。そうではないかな、天岡」

「仰せの通りでございます。そのためにも今狭山池と狭野の地に足しげく来てくださるお客様にもっと喜んで頂けるように磨きをかけ、魅力を高めることが大事かと存じます」

 氏安はこの度の藩校開設に伴い、考えていることがある、と言って、次のような話を天岡にした。

1.農民の「国柱塾」工人の「国富塾」商人の「流通塾」の塾長、師範のそれぞれの者が

  それぞれの勉強の成果を広く発表する機会をつくる。この発表は大阪、京都、堺から

  来てくださるお客様に見て頂く。発表の場所は肩の凝らない温浴施設の食堂などを広い場所を使えば良いだろう。

2.世間は広い。お客様の中には農民、工人、商人とそれぞれいることだろう。われわれよりも高い知見を持っている人も中にはいるはずだ。発表することによって、気付かされることも多いのではないか。

3.そのような人達と良いつながりを持つことができれば、いつなんどき新しい道が開けるとも限らない。世間の人々はお客様であると同時に、われわれの教師でもあるのだ。

 藩校開設の式典の後、発表会が開かれた。塾長、師範、講師の並ぶ中、発表者が自分達の学びの様子をそれぞれ報告した。会場には湯治で来ているお客様も大勢来てくださった。

 発表の後、座卓に並べられた食べ物をつまみながら、懇談の時が続いた。

 あるお客が言う。

「狭野藩はちいさな藩だが、取り組んでいることは大きなことですな。人を育てる、これ以上大きな仕事はおまへん」

 氏安は頭を手ぬぐいで被い、会場の中にいた。発表者の話を聞きながら、「随分練習もしただろうが、ここまで立派な発表ができるとは・・・」後は言葉にならなかった。

 発表会の後、一週間後藩校に数通の手紙が届いた。

 その中の一通。

「今迄藩校と言えば侍の子弟のものでした。このような四民が一緒に学ぶことのできる藩校は他にないのではないでしょうか。できることなら私の息子を貴藩の藩校に入れたいものだと思っております。大阪の一工人」

 もう一通は和算に触れている。

「貴藩校では四民が和算の学習をしているのに正直驚きました。子どもたちの間でも和算の計算をまるで遊びのようにやっているのを見て、これだと思いました。京都の一商人」

 藩校開設、発表会の後、暫くはこんなやりとりが続いた。

 氏安は考えていた。これからの時代、人々の心をつかむ商品をあたらしく創り出すためにはわが藩だけで小さく固まっていてはならないのではないか。しかし「他領勝手」はなかなかできるものではない。そのためにもまずは波風の立たないところで、人々とのしっかりしたつながりをつくるにしくはない。わが藩は小さな、力のない藩なのだ。じわじわと行くのだ。


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