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時代小説「欅風」(70)才蔵の生き甲斐 

 一年が経った。

 才蔵は郷助の畑で次郎太、孝吉と一緒に農作業に汗を流し、郷助の作業場で郷助を助け、最初は月1回だったが、最近では月二回、波江の寺子屋で和算を教えている。

 寺子屋への行き帰り、才蔵は「我ながらこのような日がくるとは 思っていなかった」。労働に励み、人々の笑顔に接するうちに、自分を死に駆り立て、自己憐憫的思いに沈もうとするもう一人の才蔵が随分と穏やかになった。才蔵はもう自分の中のもう一人と戦わなくて良いのだと思えるようになった。他の人には自分の心中は分からないかもしれないが、自分の人生、この問題が解決しただけで十分とさえ思えた。

 ところが次郎太がこんなことを言った。

「才吉さん、最近才吉さんがやっと一人に見えるようになってきた。以前は何かボーッと二人に見えたもんだが。そしていつも疲れているようだった。だけど今は違うだよ」

 才蔵は図星を衝かれた心の動揺を抑えながら、

「次郎太さん、まだまだです。いつぶり返すかもしれません」

 才蔵の言葉に被せるように次郎太は言う。

「才蔵さん、もう大丈夫。大丈夫ですだ。そう信じて前に向って進んで行ってください。才蔵さんの上には青空が広がってきただよ。才蔵さんのための青空が。だけど人の心の深いところは薄暗がりがある。青空と薄暗がりの中を生きるのが人生と思うだよ。辛くなった時は、一人で問題を抱え込まずに声をかけてください。俺も辛くなった時には才吉さんに声を掛けますだ」

 朝焼けを見ながら、次郎太の車椅子を、孝吉と才蔵が押しながら、田畑に向う。車椅子の中の次郎太が言う。

「毎日、こんなふうにして三人で畑に行き、働く。毎日同じことを繰り返しているようだが、俺は本当に幸せだ。こんな日々がずっと続いてほしいものだ」

 田畑への行き帰り、三人でいつも話し合う話題といえば、どうしたら品質の良い農産物が多くとれるようになるか、そして、手間を省き、生産性を上げるための農機具の開発についての話であった。

 野良仕事が終る夕方、休む間もなく、才蔵は郷助の作業場に入る。主な仕事は帳簿付けと助手一人一人の今日一日の出来高の確認だった。夕食後、作業場に戻り才蔵は郷助と打ち合わせる。そして一日が終る。

 月二回の寺子屋の講義を才蔵は楽しみにもしていたし、その準備にも時間を掛けていた。郷助、次郎太の許可を取り、月2回午後は休みをもらい、才蔵は寺子屋に向った。懐いてきた子どもたちに会えるのが嬉しかった。そして波江にも、慈光和尚にも会える。

「このような人達に囲まれて、一日一日を過ごすことが今の私の幸せなのだ。先のことは考えないようにしよう。今日一日を生きることができればそれでいい」

 才蔵は寺子屋で教えた後、慈光和尚と茶を飲みながら、話をする。和尚が誘ってくれるのだ。和尚は頭を下げた後、言う。

「子供たちが木賀さんが来るのを楽しみにしております。本当に分かり易い講義です。子供たちのために工夫してくださっていることが良く分かります」

「恐縮です」

 才蔵は和尚の顔を見ながら、自分の今迄の人生を語る。

「私は死にぞこないなんです」

「それは、それは。どんなことがあったのですかな」

 和尚は才蔵の話を時には相槌を打ちながら聞き続けていた。

 才蔵は和尚なら自分の人生を分ってくれる、なぜかそのように思った。半刻ほど話した後、和尚は言った。

「拙僧も死にたいと思ったことがありました。そしてそこから新しい人生が始まりました。最近思うのですが、人生の問題はなかなか解決できるというものではないようですな。解決できればそれはそれで良いのですが、私達にできることは乗り越えていく、ことではないか。どうやって乗り越えていくか、拙僧は最近、仏の教えとは、乗り越えていくための知恵ではないかと思っていますのじゃ。いやいや、余計なお話をしました」

 才蔵にとって子供の頃の体験が大きな心に傷になっていた。それは母との関係だったが、その話もおいおい慈光和尚に聞いてもらおう、和尚ならきっと受けとめてくれるはずだ。

 この問題の解決がこれからの人生を本当の意味で開いてくれるのではないか、才蔵はそう思った。


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