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時代小説「欅風」(74)波江・この世の人生への問い

 波江は毎日早朝から深夜まで働き詰めだ。何時寝ているのか分からないくらいで、千恵が心配して聞く。何かに憑かれたかのように、いや何かから逃れるかのように働いている。

「お母さん、いつ寝ているの?大丈夫?」

「千恵ちゃん、大丈夫よ。ちゃんと寝ているわ」

 しかし実際のところ、夜泣きする赤子の世話もあり、まとまった時間眠るというのは難しかった。

 波江は赤ん坊の世話から農作業、寺子屋での授業、孤児院の子どもたち一人一人の身の回りの世話そして3度の食事の準備、をしていた。千恵も手伝った。直売所と引き売りの売上は千恵が責任を持って管理し、波江に報告している。

 赤ん坊を引き取り、世話をするようになってからは、畑の脇の直売所、そして町中での引き売りは千恵と幸太の二人で行くようになった。子供の引き売りということで贔屓にしてくれるお客が何件かついた。ある日の夕方、その日の売上金を持って家に帰ろうしている時、暗がりから若い男が飛び出してきて、千恵の身体にぶつかり、売上金を奪おうとした。

 千恵は売上金を野菜の袋の中にしまっておいた。若い男は千恵を脅して言った。

「金はどこだ?」

 千恵は落ち着いて答えた。

「お金はわずかですがあります。でもこのお金は私達が今日畑で働き、町中を行商していただいたお金です。私達の毎日の大切な生活費なのです。それでも持っていきますか」

 若い男はたじろいだ。

「そうか」と言ったまま、立ち去っていった。

 幸太はびっくりして千恵に言った。

「千恵ちゃん、スゴイね。怖くなかった?」

「真面目そうな人だった。人は自分にできることで働いて生きていかなければならないわ。人から奪ってはいけないのよ」

 波江はある時、幸太にこう言ったことがある。

「幸太ちゃん、ここは孤児院だけど、これからはもし幸太ちゃんさえ良かったら、こう思ってほしいの。ここが幸太の実家だと。幸太はいずれ世の中に出ていくのよ。仕事の一番基本の農作業を覚えればいつでもどこでも働けるわ。読み書き、和算をしっかり覚えれば商いだってできる。でも一番大事なことは人として恥ずかしくない生き方をすることよ。

 幸太が大人になってこの孤児院を出ていっても、いつでも来たい時には来ていいのよ。ここが幸太の実家なんだから、遠慮しないで来てね。慈光和尚さんと一緒に待っているわ」

 幸太は黙って頷いた。

 波江は警戒していた。最近はキリシタン狩りが一層激しくなってきている。家の中に突然役人が入ってくることもある。先日夕餉を終えて、子どもたちが風呂に入り、寝静まった頃、役人が二名突然やってきた。部屋の中に上がってきて、あちらこちら調べ始めた。

 役人が言う。

「このあたりにキリシタンがいるとの知らせがあったのだ。キリシタンはお前たちか」

 役人の質問に波江は落ち着いて答える。

「私たちはお調べいただくと分かりますが、隣の慈光和尚様のお寺の檀家です」

 役人が帰った後、波江は千恵と話し合った。

・二人以外の時はキリスト教の話は一切しない

・隣の慈光和尚様のお寺でのお勤めは欠かさない

・子どもたちの前でも、寝静まった後もキリスト教の話はしない

 波江は最近、この世とあの世、つまり天国のことについて考えている。人の命はこの世だけではなく、あの世にも続いている。この世の苦しみ、悲しみは必ずあの世で癒される。

 それにしてもなぜそのような苦しみが、悲しみが「その人」に与えられるのか。千恵の母親、拷問に会い殺されるキリシタンの人々・・・。そこには「その人」に与えられた神の御こころがあると波江は頭では理解しようと思っているが、気持がついていかない。

 この世には勿論喜び、楽しみはあるけれどが、それ以上に苦しみ、悲しみがある。ゼウス様はなぜこの世を造られたのかしら。この世はあの世のための修行の場、とも言われる。

 どんなに厳しい修行になるか分からないが、それに堪えぬかなければいけない。私は今、千恵と一緒に生きている。子どもたちと一緒に生きている。私は生まれて初めて生きる喜びを感じている。生きてきて良かったと思っている。だからどんなことがあっても生きていきたい。私のためではない。子どもたちのために。それが私の幸せなのです。このような私の幸せをゼウス様、あなたは守ってくださるのでしょうか。死とは終りではなく、あの世の人生の始まりなら、この世の死とは救いなのでしょうか。でも私はこの世でもっともっと生きたい。生かしてください。

 最期は祈りとなった。波江は布団の中でそっと涙をぬぐった。

 最近千恵が波江にこう言った。

「お母さん、私にお母さんの料理を教えてください。今迄以上にお手伝いしたいの。」

 千恵は波江が教えてくれる料理のつくり方を一つ一つ覚えていった。なぜ千恵がそんなに熱心に料理に取り組むのか、波江は千恵の横顔を見ながら、千恵の将来のことを考えていた。「千恵ちゃんは何かを考えている」

 ある晩、波江は千恵と夕餉を共にしながら、それとなく千恵に聞いた。

「千恵ちゃんは将来どんな仕事をしたいと考えているの」

 千恵はうれしそうに答えた。

「お母さん、私ね、将来食べ物屋さんをやりたいの。みんなが食べにくるお店よ。畑でとれた野菜を使って、美味しい料理をつくって地元の人達に食べてもらうの。まるで家族みんなで食べているような温かいお店。そんなお店を開きたいの。そのお店はただ食べるだけではなくて、家族のように集まり、地元の人達と苦楽を共にしていけるような、地元にとってなくてはならないようなお店です。お母さん、私、お母さんと一緒に料理して、そして食事をしながら思ったの、食べ物って人を幸せにする力があるな、って。ううん、贅沢な食べ物というわけではなくて、普通の食材でも美味しく料理すれば人を幸せにすることができる。 最近私、思ったの。料理の仕方は限りなくある、って。それを考えると楽しくなるの」


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