時代小説「欅風」(76)叡基・狭野での土木・建築工事
狭野藩は小さな藩だ。当然領地も狭い。氏安は叡基とこれからの領地開発について話し合った。二人は藩庁の池に架かった小さな太鼓橋のところに座って話し始めた。
朝の空気は気持ちがいい。氏安は思わず深呼吸をした。
現在他の藩では新田開発が盛んに行われている。森が次々に削られていく。森の木を伐採して、田圃に変えればそれだけ米の生産が増える。それでいいのだろうか。
氏安は北条五代の領国経営策について調べていた。調べれば調べるほど、当時としては進んだ政策を採っていたことが分ってきた。まず北条家の家紋。家紋には財産と生命が穏やかであるようにと、人々の平和な暮らしへの願いがそこには込められている。氏安は母が存命中に聞いた話がある。母は言った。「北条氏第一代の早雲様は浪人から成り上がったと世間では言われていますが、本当はそうではありません。早雲様は室町幕府で高い位についておいででした。京の都から東国の伊豆に行かれたのには何か深い訳があったとのことです。私は京の力、因習の及ばない小田原に理想の国を建てることが早雲様のお考えだったのではないかと思っています。北条氏には理想の国をつくるという思いが連綿とあるのです。そのことをあなたも心に刻んでおかれますように」
氏安は母の言葉を胸の中で反芻しながら、叡基に書き物を渡した。そこにはこのように書かれていた。
1.農民に苛酷な税負担を強いない。そのためにも農地の面積、農地が痩せているか、肥えているかも正確に調べる。適正な税負担ができるよう正しい検地を行なう
2.家臣、代官が私服を肥やすための勝手な徴収命令を出すことがないように、農民への文書、工人、商人への文書には必ず北条の家印を押すこととする
3.楽市楽座の場を決めて、商業を振興する。また領内での通貨を永楽銭に統一する
4.適地適作を実施し、米だけではなく領内で消費する青物・土物、果樹を増産し、また換金性の高い養蚕、木綿、生糸、薬草の生産に力を入れる。新田開発は慎重に行なう
5.河川の氾濫、地すべりの危険を最大限防ぐ
6.狭野の地を桃源郷にする
読み終えた叡基が顔を上げて微笑みながら、答えた。
「承知致しました。桃源郷とするための、領地利用計画を早速作ることといたします」
ところで、と叡基は言葉をつないだ。
「1から5までは詳細に書かれていますので、お尋ねするまでもありませんが、6番目の桃源郷について殿のお考えを少しお聞かせ頂けないでしょうか」
氏安は答えた。
「領国に住むものが日々戦さの不安もなく、自然と共に、その美しさの中で、平和で穏やかな暮らしができること、そして四民が助け合い、義と慈悲が行き渡る・・・私は桃源郷をそのように考えている。理想の国、なのだ。それは何も私が一人で考えたことではなく、北条第一代の早雲様が東国で目指されたことだった。それを私はこの狭野の地で受け継ぎ、実現しようとしている。」
「ありがとうございました、お恐れながら殿のご心中にあることは私の願いでもあります」
叡基は氏安に頭を下げた後、呟くように言った。
「さてさて、忙しくなります」
氏安は大空を見上げてから、叡基に顔を向けて言った。
「叡基殿にはご苦労をお掛けする」
叡基は領地利用計画をつくるにあたり、あらためて領内の田圃、畑地、果樹園、溜池、小河川そして養蚕、木綿、生糸、薬草の栽培地、さらに最近河川の氾濫、山肌の地すべり、崖崩れのあった場所を調べることにした。そのために測量に長けたものを四名、記録係りを一名、農民の古老二名を集めて組をつくり、早速現地調査を開始した。その一方で農地の検地を正しく行なうための測量方法、また計算の仕方を研究するように税を集める係りの者に指示を出していた。従来弧状の地形のところは切り上げて長方形で計算していたが、叡基は正確に弧状の面積を出すようにとの課題も与えていた。
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