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時代小説「欅風」(9)お江戸建設

 慶長八年、家康は江戸の町作りに本格的に着手した。神田山を切り崩し、日比谷入江を埋め立て、日本橋が架けられた。全長百七十尺弱の中央が高い橋で、そこからは江戸城が一望できた。また晴れた日には、はるか富士山を眺めることができた。翌九年には日本橋が五街道の起点となった。

 水路が次々と整備され、川岸の数多くの河岸が作られ、舟からの人や荷の揚げ下ろしが行われた。大川を始め、江戸府内を流れる川に数百の橋が架けられた。水の都、舟運の江戸であった。

 土木工事、建築工事のために夥しい職人が、また現場作業人足が江戸に集まった。職人や人足の仮住居の建設も盛んに行われた。朝の仕事前には道端に幾つもの屋台が出て、あちこちで湯気があがり、手配師の声が騒がしい。


 狭野藩には幕府より元和五年、堰堤工事が下命された。大川の堰堤の嵩上げ工事であった。狭野藩は国元の狭山池で堰堤工事を繰り返し行っており、土木技術には長けていた。狭山池では古来推古天皇の時代から、百済より伝来した敷葉工法が使われていたが、狭野藩ではこの工法を研究し、改良を加えていた。全長三百尺の堰堤を築く工事であり、狭野藩ではこの費用の捻出に苦悶した。藩の年間収入にほぼ匹敵する金額であった。そして翌年元和六年、大阪城修築令が出され、大阪にある藩ということで狭野藩にも土塁修築の命が下った。これも藩の年間収入の四分の一に上った。これでは藩の財政が破綻してしまう。

 狭野藩藩主氏安は大川の堰堤の嵩上げ工事の下命後、直ちに国元の家老、江戸家老と頻繁に密談を重ねた。

氏安は二代将軍秀忠の猜疑心が強く滲む顔を思い浮かべながら、

「これは形を変えた戦いなのだ。刀槍鉄砲での戦いではない。江戸幕府は諸藩の経済的力をとことん奪おうとしている。太閤殿下の思し召しで残った我藩を秀忠様は取り潰したいのであろう。・・・なんとしてもこの戦いに勝たねばならぬ・・・負けてはならぬ。・・・

それにはどうしたものか」

 氏安は最初の正念場を迎えていた。


 氏安は狭野藩藩主の菩提寺に行き、先祖の墓の前に額づき、祈った。「藩の存亡を賭けた戦いが始まります。どうぞこの難局を乗り切るための知恵と力と勇気を私にお与えください。氏安、わが藩領民すべてのために、この戦いに勝たねばなりません」

 木立に囲まれた菩提寺の墓の前で、悶えるように氏安は祈り続けていた。

 いつの間にか氏安の後ろに人が立っていた。菩提寺の住職の法全和尚だった。

 氏安が祈り終わったのを見計らって声をかけた。法全和尚は氏安に子供の時から何かと目をかけていた。

「今日はお一人できなすったのか」

「はい。一人で祈りたくなりまして。・・・いや正直に言いますと居ても立ってもいられなくて、ここに導かれるように参りました」

「気持ちは晴れましたですか」

「はい。ご先祖様も一緒に戦ってくださる、これは自分一人の戦いではないと、そのように思えてきました」

「それはようござった。ところで氏安様に是非お引き合わせしたい者がおります。名前を叡基といいます。きっと氏安様のお力になることでしょう」

「叡基とはどのような方なのでしょうか」

「叡基は坊主じゃよ。坊主は坊主でもお経を詠むより土木工事が性に合っているという、ちょっと変わり者でな。しかしツボに嵌まると途轍もない力を発揮する、泥と汗の臭いのする坊主だ。叡基は口を開くと『わしらは苦しさと貧しさの中で喘いでいる百姓に生きる力と仏の慈悲を伝えるために経典を学んできた。学んだことは活かさなければならぬ。人々に幸せをもたらし、暮らしを守るために、わしらは人々の相談相手になり、道をつくり、橋を架け、岩山を掘るのだ』と言うのだ」

「会わせてください。会いとうございます」

「変わり者だが、誠実で心優しい、しっかりとした男じゃ。捨聖といったところかの。」

「叡基殿は今どこにおいでですか?」

「叡基は遊行僧で、諸国を回っているが、もう直にここに戻ってこよう。戻り次第お屋敷に使いをやりましょう。・・・ところで氏安様、拙僧から一言申し上げたきことがあります。よろしいですかな。それは苦しい時、いやもう絶望だと思うような時にこそ、にっこり微笑む、ということです。にっこり微笑めば自分にも周りの者にも余裕が生まれ、少しづつ良い方に必ず向かっていきます。よろしいでしょうか、できますな」

 氏安は大きく頷いた。


 氏安は屋敷に戻った。屋敷の者たちが「出かけるときには難しい顔をされていたが、帰ってこられた殿は晴れ晴れとしている」と思わず口に出す程だった。

 その晩、氏安は久し振りにぐっすり眠った。

 翌朝目を覚ました後、氏安は毎日日記を書くことを決めた。私はこれから日々自分に向き合っていこう。自分のありのままの思いを書き綴るのだ。この戦いは私の心との戦いであるのだから。

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