阿栗 満(Agri‐man)氏の農的人生(3) 人生を生き抜くこと
高齢期は季節に例えれば晩秋の時期となる。秋の寂しさを感じる。冷たくなり始めている風。舞い散る枯葉。人恋しくなる時でもある。阿栗は最近なんとも表現しようのない寂しさを感じることがある。この寂しさはどこからくるのだろうか。人としては愛する家族(妻と娘)がいる。心の中を打ち明け、聞いてもらえる人生の友も与えられている。そしてライフワーク的な仕事を一緒にやっている仕事仲間もいる。それでも寂しさを感じる。このような寂しさは高齢期特有の感覚なのだろうか。今迄数えで80年間生きてきた。80年、長いといえば長いが、アッツという間の80年だったような気もする。大学受験、浪人、大学入学・学園紛争、大学院入学・中退、商社に就職、ハンガリー旅行、クリスチャンになる。そして結婚、マレーシア駐在、帰国後商社を退職して父親の会社に入り、社長。そして自主廃業。新しい仕事、ライフワークとして屋上緑化、さらに現在迄続いている屋上菜園の仕事。
それなりにやることはあるが、なぜか寂しい。以前はこの寂しさに虚しさが滲んでいたが、最近感じるのは寂しさだ。虚しさの感情は今日一日を大切に過ごすようになってからいつの間にか静まっている。人生は束の間だ。今、ここを生きる。そう思う切ることができるようになって、虚しさは和らいだ。虚しさは時間、寂しさは存在するということから出てくるのだろうか。存在ということは孤立している、ということなのだろうか。
阿栗はこれからの人生を考えるためにも、この寂しさの感情をしっかり受けとめ、味わうことが大切であり必要でもある、と最近思えるようになってきた。人生の通過点で味わうべきことを逃げずに深く味わう。そしてそのことに自分がどのように対応しているか、対応できているか、いないかを客観的に見つめることに心を向けている。
街を歩いている時に最近、時々あることだが、中年期の自分に良く似た人に出逢うことがある。うつむき加減で歩いている。暗い顔をしている。思わず声をかけたくなる。ただ知らない老人から道端で突然声をかけられたら、相手はびっくりすることだろう。阿栗は40代後半から」50代半ば迄、悲しく、辛い、苦しい時期を経験した。将来を期待していた可愛い長男を交通事故で失い、父親から継いだ会社経営がうまく行かず、倒産するのではないかという不安に日々怯えていた。倒産は人生破滅につながっていく。
中年期の自分が現在の自分を見たらどう思うだろうか。喜ぶだろうか、あるいは失望するだろうか。それは分からない。しかし人生で耐え難い出来事に遭遇し、ある時は「死にたい」と思ったことが何度かあったが、今まで生きてきた。何とか生き抜いてきた、さらに言うなら「生き延びてきた」。もちろん自分だけの力で生き延びてきたわけではない。
阿栗は最近思うことがある。人生は結果も勿論重要だが、どのように生きているか、その過程がもっと重要だ、ということである。そしてその過程の中に、深いところに人生の真実を見出していく。人生は自分だけのものではない。家族、兄弟、友をはじめとして、多くの人たちの人生とつながっている。また神がこの私に人生を与えてくださっているなら、神とも最も深いところでつながっているはずだ。
神は言われる。「あなたは今絶望しているかもしれないが、この試練を乗り越えることができる。あなたを超越的存在である私が支えている。乗り越えることでより価値のある新しい、あなただからこその、本当の人生を生きることができる。私と共に」
神に応答し、そのように思えた時、耐え難い出来事を乗り越えていく意欲と力と希望が湧いてくる。
阿栗の場合、試練を乗り越える力は神との応答を土台にして、大空と大地、流れる川、緑の丘、という自然の中で、農作業を通じて土に触れ、野菜を育て、収穫する中で与えられた。自然の中で時間を過ごすことが多くなった。自然の中には大小さまざまな生命が溢れている。生命に触れる貴重な体験が阿栗の心を変えていったようだ。そして改めてこの自然を創造された神の存在を実感している。
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