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屋上菜園物語

 

〜第27話〜

<野菜の歌

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 晴れた青空を見上げながら、白い雲の流れを高崎敏夫の目はゆっくり追っていた。それは敏夫の心の中の風景でもあった。心の中をさまざまな思いが流れていく。敏夫はすぎもとまさとの歌をパソコンのYou Tubeで聞きながら仕事関係の原稿を書いている。
歌の聞き方が以前とは違ってきた。40歳代の時は好きな歌を仲間とカラオケボックスで時々歌っていた。ひと時、男と女の愛を歌った演歌の世界に浸り、気分転換をしていたのだろう。しかし60歳を超えたあたりから演歌からいつの間にか、人生を歌う歌に惹かれるようになっていた。人生を歌う歌は人生の本当の姿、失敗、挫折も歌っている。60歳になって自分の人生全体を眺める余裕というか勇気も出てきたようだ。最近はすぎもとまさとのCDをパソコンにセットして聞くことが多い。「鮨屋で」はあさみちゆきの歌も併せて聞いている。あさみちゆきの歌声からは、娘が二度と会えない父を思いながら歌っている気持ちが伝わってくる。切ない。敏夫もそのようなことが分かる年齢になった。

 

 最近の敏夫は自分の人生を一本の木に擬えている。この世界に生まれ、大地に根を張りながら、段々成長してきた樹。10歳代に伸びた枝、20歳代に伸びた枝、30歳代に伸びた枝、40歳代に伸びた枝、50歳代に伸びた枝、そして現在60歳代に伸びている枝・・・。樹は成長しながら樹全体を大きくしていく。若木の時に伸ばした枝も太く、長くなっている。それはあたかも人生を後から振り返って見て、若い時代からそれぞれの時代に新しい意味を、価値を加えていく行為に似ている。そして改めて折れている枝、枯れている枝があることに気付く。敏夫は折りに触れて自分の人生の樹を眺めることにしている。順調に伸びている枝、途中で折れた枝、枯れかかっている枝、そして天を目指している梢。それにしても折れたり、枯れたりしている枝が多いことに気付く。また幹にも大きな傷がある。

 今、敏夫はビジネスコンサルタントの会社、「TNY(トニー)」でメンバ―と一緒に仕事をしている。顧客は地方の地場の家族経営に近いような会社、また農家を対象にしている。彼らはコンサルタントに高いコンサル料を払って事業経営を指導してもらう余裕が無い人たちだ。そのような人々が自分の事業の将来に希望を持つことができるように、事業が発展していくように、顧客がTNYが提供する事業計画フォームに基づき自分で事業計画案を作成し、またTNYが準備したビジネスモデルの作成マニュアルに基づき自分でビジネスモデルを創り上げてあげていく。簡単ではないが、ある時は呻きながら事業計画書を、そしてビジネスモデルを自分で創る喜びを感じてほしい。
彼らは定期的にTNYと打ち合わせを持ち、アドバイスを受ける。そして事業にとっては人と人とのつながりが重要だ。人脈の紹介もTNYで行っている。チームのメンバーは3人。3人はK大学のクラスメートでさらに同じゼミだった。なぜか気が合い、卒業後も折りに触れて会っていた。敏夫はある食品会社で長年新規開発の仕事をしてきた。中村は新聞社勤務の後、コンサルタント会社に転職し、コンサルタントとして主に中小企業の事業計画づくりに携わってきた。山川はIT関係の会社でプログラムづくりの仕事をやってきた。60歳になったのを区切りにしてそれぞれの会社が副業を認めるようになったので、3人で事業を始めることにした。法人の形は一般社団法人、非営利。3人の名前の頭文字をとって法人名は「TNY(トニー)」。
3人の経営理念は「小さなチームで価値ある仕事、そして地方再生こそ日本の本当の再生」。3人は現場の様子を知るために、折に触れて顧客のいる地方に出張している。山梨県、千葉県、静岡県、さらには大阪府、島根県、熊本県・・・。顧客は徐々に増えてきている。宿泊する場合は民宿と決めている。旅館、ホテルと違い、民宿であればご主人、奥さんと話ができる。地元の様子が伝わってくる。
そして地方に行くと地元の高齢者が代々歌い継がれてきた民謡を聞かせてくれる。民宿のご主人が食後のミニイベントとして民謡タイムを用意して楽しませてくれるのだ。昔の人たちは厳しい農作業の後に歌ったのだろう。ところで自分の今迄の仕事に歌はあっただろうか、と敏夫は考える。今この年齢になって本当に仕事をしているという幸せを感じている。仕事とはやはり仕える事なのだ。
地元の民謡を一緒に歌う。やはり一緒に歌うとそれだけ楽しい。思わず歌わずにはいられない気持ちになる。

 

 最近地方に出張してよく聞く話は地方にいて仕事をしている男性が縁遠くなっているということだ。農家の長男の多くが嫁の来手が無くて独身を余儀なくされているとのこと。先日宿泊した静岡県の民宿では、家を出て東京に行って仕事をしていた跡取り息子の武夫が帰郷して今民宿を父親から継いでいるが、まだ経営が厳しいこともあり、嫁の来手が無い。民宿だけでは生活していけないので、先祖伝来の田んぼと畑で農作業もやって収入を補っている状態だ。「誰かいい人がいませんか。是非紹介してください」。敏夫は父親から頼まれている。父親は寝たり起きたりの生活で、「自分が元気なうちに息子が結婚すること、そして孫の顔を見たい」と口癖のように言っている。
一方武夫は東京で飲食店といういわば水商売で鍛えられたせいか、親から見ても逞しくなっている。「バタバタしてもしょうがない。なるようになる」と割り切って仕事をしている。

 武夫は地元の高校を出た後、民宿の仕事は継がずに東京の渋谷の飲食店の店員となった。地元の高校の野球部の先輩がその飲食店で働いていた。深夜迄営業をしている飲食店で午前1時に片付けを終えて、すぐ近くのアパートに徒歩で帰った。勤務時間は午前10時から午後3時。2時間の休憩の後、午後5時から午後12時迄。
アパートは古い3階建ての建物で部屋は3階の4畳半一間と台所、便所だった。陽の当らない日陰の部屋だ。夕食は飲食店の残りものを持って帰って食べた。日記をつけて眠ると午前2時を過ぎていた。休日は週1回で月曜日。1週間の疲れもあり、休みの日は午前10時頃迄寝ていることが多かった。ある休日の朝、といっても午前11時頃、部屋の窓を開けて隣の建物の屋上を見ると小さな菜園が目に入った。隣の建物も3階建てて1階は蕎麦屋だ。昭和4年からずっとここで蕎麦屋をやっている。現在の主人は3代目とのこと。
武夫は時々この蕎麦屋で休みの日には昼食を食べている。武夫は蕎麦屋の主人に聞いた。
「屋上で野菜を栽培しているんですね。どんな野菜を栽培しているんですか」
主人「おお、やっているよ。季節ごとの野菜を屋上で栽培して、店で使っているんだ。お客さんに新鮮で、美味しい有機的栽培の野菜を食べて頂きたい、という気持ちと俺の気分転換を兼ねて育てている。もし良かったら今度ウチの屋上に来ないか。お隣りさんだよね。屋上で野菜の世話をしているのは朝の準備が終わった後なので8時頃から9時頃かな。」

 武夫は休みの日に早起きして、午前8時には蕎麦屋の3階に上がった。外階段で屋上まで行くことができた。大分錆びついている階段だ。
屋上には大きな横長のプランターが10個ほど置いてあった。土は有機的栽培用の軽量培養土ということで触ってみるとサクサク、フカフカしていた。5つのプランターでは店で使うネギ、3つのプランターではナス、残り2つのプランターではミニトマトを栽培している。
主人「蕎麦屋は1年中ネギを使うからね。ナスは天ぷら用だ。ミニトマトは自分と家族で食べている」
広い畑で大きな青空の下で栽培されている故郷の野菜に比べ、こんな狭いところで栽培されている野菜を見て可哀そうな気持ちになった。それはまるで武夫自身のようでもあった。
武夫は休日は東京の中を歩き回ることにしていた。東京散歩だ。そして夕方、家々の、そしてマンションのガラス戸に明かりが灯る頃、明かりの下にそれぞれの家族の、住人の暮らしがあることを思うとなぜか明かりの灯る街を抱きしめたい気持ちに駆られた。自分はここにいる、生きているんだ、と叫びたくなった。故郷にいた時は山裾の村にはポツンポツンとしか明かりは無かった。一方東京は夜でもまるで日中のように光が溢れている。しかしその光はどうしようもなく武夫には寂しい光だった。休みの日、夕刻アパートに帰る途中、いつも寄る中華料理店がある。ラーメンと小鉢セットの定食を頼む。ここの主人は既に80歳を超えているが、元気に厨房に立ち、息子に指示をしながら料理を作っている。お客はほとんど地元の独身者だ。若い人もいるが高齢者も多い。お客は料理を配り、会計をしている奥さんと話しを交わしている。まるで自分の家の食堂にいるかのように。
武夫は食事を終えてアパートに帰ると蕎麦屋側の窓を開けて小さな屋上の菜園を見るが習慣になった。
武夫は思わず野菜たちに声をかけた。
「そんな狭いところで、風通しも悪そうなところで大変だね」
ネギが答えた。「私たちは植えられたところで生きていきます。広い畑と違ってこのような場所ですから大きく育つことができません。それでもここで精一杯生きています。もちろん辛い時、苦しい時がありますが、生きるだけ生きていきます。明日は収穫されて皆さんに食べて頂くかもしれません。ですから一日一日が大事です。このような場所ですので十分に太陽光が当たりません。それに土寄せも不十分です。ですが、与えられた自然環境で生きています。もっと言うと楽しんでいますよ。武夫さんもそうではないですか。私たちは生きて生きて、最後は人のために役立つ、そして喜んで頂く。それは小さな喜びかもしれませんが。」
武夫「そこまで言うか。俺はまず自分のために、とにかく生きていかなければならないんだ。まだまだ自分のことで精一杯だ。故郷に戻るにしても何か「これだ」というものを掴まないことには帰るに帰れない」
ネギ「武夫さんはまだまだ若いですから、どうぞチャレンジを続けてください。私たちも武夫さんを見守っていますよ。」
夕べの風にネギが揺れ、ナスもトマトの枝葉を揺らしていた。夕焼けの空が広がっている。

 

 武夫は休みの日に埼玉県に住んでいる高校の先輩の家を訪問した。先輩は埼玉県朝霞市で土木工事関係の仕事をしている。昼食後、先輩が借りている畑に行き、一緒に農作業をした。畑の耕耘、施肥だった。畑の主に通路で硬くなった土をスコップで掘り返し、レーキで土を砕き、牛ふん、腐葉土を撒いた後、ガスボンベ式の耕運機で土を耕していく。かなりの重労働だ。先輩がやり方を教えてくれたので、武夫もやってみた。耕運機の跳ね上がりを抑え込むのに思った以上の力がいる。

先輩「時々遊びに来な。そして畑仕事を手伝ってもらったら助かる。」
夕焼けの雲が空一杯に広がっている。故郷の夕焼けと同じだ。夕べの風が気持ちいい。こんな感じは本当に久しぶりだ。野を渡る風に優しさを感じた。
武夫は心の中でつぶやき、思わず両親に感謝した。「自分は農作業は好きではないけど、両親は俺のために民宿で、畑、田んぼで休み無しで一生懸命働いてくれたんだ。お陰で高校の野球部で活動もできた。親父、母さん、ありがとう」

 先輩は畑での作業の後、一旦家に帰り着替えてから近くの食堂に連れていってくれた。

先輩「ここは餃子が売り物の中華料理店なんだ。好きなものをどんどん食べてくれ」
言葉に甘えて武夫は久しぶりお腹一杯食べた。食堂は早めに切り上げて近くのカラオケ店に入った。先輩は馴染みらしい。
先輩「仕事で疲れた時とか、気分転換したい時に来るんだ。歌を聴いたり、歌ったりすると、俺の場合は、また明日も元気にやるぞ、という気持ちになれる。俺の健康法は畑とカラオケかな。好きな歌手は何人かいるけど、最近はすぎもとまさとの歌を歌うことが多い。吾亦紅、忍冬、紅い花、鮨屋で、小島の女・・・。」
その晩はカラオケ店を9時過ぎに出て、渋谷のアパートに帰ったのは午後11時頃だった。
窓を開けて隣の蕎麦屋の屋上菜園を見た。月の光の中で野菜たちは眠っているようだった。野菜も夢を見るのだろうか。
カラオケ店で歌の本を見ながら気が付いたことがあった。花を歌った歌は沢山あるが、野菜の歌は無さそうだ。なぜだろうか。

 武夫が東京に来て4年目。店の仕事にも慣れて副店長になった頃、故郷の実家の母から連絡があった。
母「父さんに癌が見つかったの。中期の胃癌だって」
武夫「それで父さんはどうしている?」
母「近い内に手術を受ける予定よ」
武夫「手術の日が決まったら、連絡して。そっちに行くから」

 手術は地元の市立病院で受けた。父は気丈にしていたが、胃の全部を切り取った。
しばらく安静にしている必要がある。東京の店は長くは休めないので、手術の翌々日東京に戻った。夜、帰宅後アパートの窓を開けて隣の蕎麦屋の屋上菜園を見た。ネギが一部収穫されている。ミニトマトは枝葉が枯れていた。ナスは切り戻しをした後だった。
ナスが夜更けの風に揺れている。ナスが声をかけてきた。
ナス「しばらくお見掛けしませんでしたが、何かあったんですか」
武夫「故郷の父が胃癌で手術を受けたんだ。それで実家に帰っていた」
ナス「御父さんの具合はいかがですか?」
武夫「予想していた以上に胃癌が進行していて、胃を全部取ったんだ」
ナス「御父さんは武夫さんに戻ってきてほしい、と言ってましたか」
武夫「そうは言わなかった。俺にどんなことがあっても武夫は自分が選んだ道を歩け、と言ってくれた」
ナス「それで武夫さんはどうされるお気持ちですか」
武夫「野菜の皆さんを見ていると種を播かれ成長し、実をつけ、種を結んでいく。そしてその種が播かれ、バトンタッチが繰り返されていく。俺は本当の意味ではまだ実をつけていないが、親父が生きているうちにバトンを受け取りたいと思うようになった。

 東京で仕事をし、暮らす中で、東京のいいところもそうでないところも分かったような気がする。田舎のいいところ、悪いところも、東京で暮らし、仕事をする中で見えてきた。まだ俺は未熟者だけど、親父が元気でいるうちに故郷に戻り、親父からバトンを受け継ぎ、走る姿を見てもらいたいと思うようになった」
ナス「そうですか。それではいよいよ故郷に帰るんですね。寂しくなりますが、どうぞ故郷で頑張ってください」

 武夫の民宿に敏夫が泊り、いつものように食事の後、地元民謡を一緒に歌った。歌の後、敏夫は今回は地元の温泉旅館のために事業計画とビジネスモデルづくりのサポートをしていることを武夫に話した。
武夫から自分の民宿のためにも事業計画とビジネスモデルを創りたいとの申し出があった。敏夫は快諾した。実は前々からこの民宿のことが気になっていたのだ。
敏夫はこの民宿がこの地域で都会に住み、仕事をしている人々にとって「第二の故郷」になることを考えていた。
事業計画とビジネスモデルは1年掛けて創り上げることにしている。
いよいよ敏夫と武夫のコラボが始まる。地方と都市との循環的交流、関係人口づくりが日本のこれからのために必要となる。
武夫から提案があった。
事業計画とビジネスモデルが出来上がったら、それを是非歌にしたいですね。これからは事業、仕事のための歌がほしいところです。新しい時代の民謡です。
新しい時代の民謡を作詞、作曲の専門家もお呼びしてつくりましょう。演歌ではなく、人々の生活と仕事と人生を支える「援歌」が沢山できるといいですね。そして「野菜の歌」も

つくりたいと思います。トマト、ナス、キュウリ、スイカ、それにエゴマなど。

 その晩、夕食の後、敏夫と武夫は民宿にあるカラオケセットで心ゆくまで歌った。地元の
民謡を、そしてすぎもとまさとの歌を。

 転がる石は どこに行く
転がる石は 坂まかせ
どうせ転げて行くのなら
親の知らない 遠い場所

(了)
 

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