屋上菜園物語

 

〜第7回〜 

<微笑み>

今日は屋上でイベントが開催されている。初夏の暖かい日差しの中、

緑の芝生の上で遊んだり、シートを拡げて食事をしている家族もいる。

 

屋上の一部が菜園になっていて、今日は野菜の苗の定植イベントが開催されている。

整理券を持った地元の人たちが順番に並び、屋上菜園に、屋上菜園の栽培スタッフに手伝ってもらいながら、野菜の苗をそれぞれの場所に植え付けて、土を寄せていく。

 

用意された野菜の苗はミニトマト、ナス、キュウリ、ピーマン、シシトウ。

家族で植える時は子供が主役だ。毎日の生活で土に触れる機会の少ない子供たちは、ちょっと興奮気味。植え終わった後、「ぼくがこのトマトを植えたんだよ。」

誇らしそうに言う。「これからどんどん大きくなるから時々見にこようね」と母親。

そこに車椅子に女の子を乗せた夫婦がやってきた。車椅子の女の子は7,8歳ぐらいだろうか。車椅子に座っているというより寝ている状態だ。

母親が車椅子を押している父親に声をかけた。

「野菜の苗を植え付けるイベントをやってる。ホラ、あそこで。できたら千恵ちゃんにもさせてあげたいわ。」

家族は菜園の区画のところまで来た。父親の紀夫は屋上菜園の栽培スタッフに声をかけた。

 

「うちの子にもトマトの苗の植え付けをさせてもらえませんか」

 

栽培スタッフは車椅子の家族を見て、

「いいですよ。まだトマト、ナス、シシトウの苗がありますから、お嬢さんも定植できますよ」

 

紀夫が娘の両足を持ち、栽培スタッフのYさんが肩の後に両手を入れて、菜園の横の芝生の上に千恵さんを置いた。それからYさんは千恵さんの右手にミニトマトの苗を握らせ、掘った穴の中に手を沿えて誘導、千恵さんはミニトマトの苗を植えた。それを見ていた紀夫は

 

「ナスの定植は私が手伝います」と言って、千恵さんにナスの苗を定植させた。シシトウは紀夫とYさんが一緒に手伝って植え付けた。その間、千恵さんは全く表情を変えず、

言葉も口にしなかった。お人形さんのようだった。

 

母親のゆかりが千恵さんに声を掛けた。

「千恵ちゃん。お野菜の苗を植えたのよ。良かったね。また来ようね」そう言った後、Yさんに「ありがとうございました。来月また来ます。よろしくお願いします」。頭を下げた。車椅子の家族はブドウ園の方に向かっていった。

鈴木夫妻に子供が与えられたのは10年前だった。結婚して5年が経っていた。

ところが生まれてきた赤ちゃんに異常が見つかった。

1年経っても、2年経っても声も出さず、表情もなく、まるでお人形さんのような状態だった。娘は難病に侵されていた。それでもお乳を飲むことはできた。

 

ゆかりは千恵の難病は自分のせいだと思い、自分を責め、塞ぎこむ日々を送っていた。

紀夫は前途を悲観し、一家心中を考えた。

心配したゆかりの友人が度々、鈴木家を訪れ、ゆかりに寄り添っていた。その友人も障害を抱えた子供の母親だった。子供は「お母さんのせいでぼくはこんなになったんだ」繰り返し母親を責めたそうだ。

母親は「ごめんね、ごめんね」と謝るしかなかった。そんな日々を送っているうちにある時、<人は生かされている>ということに気付かされたと友人は話してくれた。

紀夫が一家心中のことを持ち出した時、ゆかりは言った。

「この子は私に授かった子です。私はこの子と生きていきます」

紀夫はゆかりの覚悟を知って、一家心中を思い留まった。

ゆかりはいつも千恵と一緒にいた。そしてつきっきりですべての世話をしていた。

紀夫は食品機械を販売する商社で営業を担当していた。

優秀な営業マンだったが、家庭の事情もあるので、接待の機会はなるべく減らしてもらって、定時過ぎには帰宅するようにしていた。

千恵さんは5歳になっても変わらなかった。身体は少しづつ大きくなってきたが、食事は流動食に限られていた。顔の表情の変化はなく、言葉も発しなかった。

紀夫は自分に言い聞かせた。

<今日一日だけを生きよう 先のことは考えない 今日のことだけを考える。今、ここを大切にして、心を込めて一日を生きていく>。そしてこうも思った。

 

<私たち、この子がいなかったら別れていたかもしれない>

梅雨に入る前、6月下旬の土曜日、鈴木家の皆さんが屋上菜園に来た

鈴木さんご夫妻はまっすぐ千恵さんが定植した区画に向かった。

ゆかりが千恵さんに嬉しそうに声を掛けた。

「千恵ちゃんが植えたミニトマト、実がついているわよ。良かったね~。それからナスもシシトウにも花が咲いて、実ができている」

栽培スタッフのYさんが笑顔で近づいてきて、

「どうぞ収穫してください」と言って、紀夫にハサミを渡した。

 

紀夫は丁寧に収穫して、千恵ちゃんの掌に乗せ、握らせた。

「千恵ちゃんのミニトマトだよ。ナスとシシトウは次にしようね」

 

車椅子の千恵さんを菜園の傍に置いて、紀夫とゆかりが栽培スタッフのところに来た。

 

「お世話してくださり、ありがとうございます。

屋上のこんな薄い土でも野菜が出来るんですね。びっくりするやらうれしいやらです」

 

栽培スタッフのYさんが説明している。

「屋上はとにかく陽あたり良いので、野菜づくりには最高の自然環境です。それにこの高さまで飛んでくる害虫も少ないので、無農薬で野菜を栽培することができます。難しかったのは土の量です。何しろ建物の屋上なので、沢山の土は乗せられません・・・」

 

菜園の傍に一人でいる千恵さんの顔に微かだが、笑みが浮かんでいる。

 

千恵さんは心の中で野菜たちと言葉を交わしていた。

それは人間が使う言葉ではなく、言葉を超えたいのちの対話のようだった。

千恵さん

「野菜の皆さん。私は千恵です。今日皆さんのところに来れてとても幸せです。私の心はこれからミツバチになって皆さんのところに飛んでいきますよ。」

野菜たち「千恵さん。私たち植物はこの地球にずっとずっと昔に生まれ、生き続けてきました。私たちには最近地上に生まれた人間には分からないコミュニケーションの方法があります。いのちのコミュニケーションです。千恵さんは特別な人です。なぜなら千恵さんは私たちとコミュニケーションができるのですから」

千恵さんは真っ青な空から目を移し、菜園の野菜の方に微かに首を動かした。

「今日はお野菜さんたちとコミュニケーションができてとてもうれしかったです。また来ますね」

 

鈴木さんご夫妻はYさんと話をしていた。

「また来月きますので、よろしくお願いします」挨拶して、千恵さんのところに戻ってきた。ゆかりが千恵さんに語り掛ける。

9月にはブドウも採れるんだって。すごいね~」

 

車椅子を押して菜園からエレベータホールに行こうした時、紀夫は少し右に傾いている千恵さんの頭を元に戻しながら、千恵さんの顔に微かな笑みが浮かんでいることに気がついた。

 

「ママ、千恵ちゃんが微笑んでいるみたい」

「アラ、ホント。千恵ちゃんの笑った顔、初めてみた。今日は最高にいい日になったわ」

​END

©2017 JVEC  ALL RIGHTS RESERVED.