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屋上菜園物語

 

〜第9話〜

<楽農オジサン>

オジサンの草間岳生は埼玉県のN市に住んでいる。定年退職してから2年が経っていた。

「いよいよ自由になった。これからはやりたいことをやる」とゴルフ、旅行そして読書に明け暮れる日々を送っていた。まさに定年三昧。ゴルフは週2回、会員になっている近くの河川敷のゴルフ場に行き、プレーを楽しんだ。スコアが少しずつ上がっていくのが楽しみになっていた。

「もうすぐコンスタントに80台が出せる。」
 

旅行は奥さんと一緒にイタリア、ポルトガル、フランスに行った。読書は古典と言われる本を主に読んだ。会社勤めをしている時はビジネス関係の本が多かったが今ではそれも卒業だ。しかしそのような日々は長く続かなかった。

 

今年3月、奥さんが病気で突然亡くなった。病院で最後を看取った時、奥さんは「お父さんに出会えて、一緒に人生を歩めて良かった。幸せな人生だったわ」と最後に言った。その言葉はその後の岳生の人生の支えとなったが、毎日の生活の淋しさは募るばかりだった。
マンションの窓を開けて、奥さんの名前を夜空に向かって小さく叫んだことが何度あったことか。ゴルフも旅行も読書も楽しめなくなった。岳生は改めて奥さんあっての退職後の生活だったと思わずにはいられなかった。

 


岳生はホテル会社に勤めていた。40歳を過ぎたころから海外にホテルを出店する業務に携わっていた。日本国内でもある程度知名度のあるホテルだったので、海外からの出店依頼も多かった。そんな訳で日本を長期間空けることがしばしばだった。自宅に帰るのは年間で半分という年もあった。留守宅を奥さんは守ってくれたが、どんな気持ちでいたのだろう。浮気の心配もしていたのではないだろうか。

岳生はショッピングセンターの中に入っているカフェでぼんやりしている。歩いている人々を見るともなしに見ている。段々夕暮れが近づいてきた。マンションの家に帰っても誰もいない。岳生には子供が一人いるが、現在は奥さんと一緒に海外に駐在している。

岳生は暗くなる迄椅子に座っていた。急に夜景が見たくなってショッピングセンターの最上階に上がった。見下ろす町に電灯が灯り始めていた。夜景を見ているうちに岳生は涙を流している自分に気がついた。

ショッピングセンターの地下の食品売り場で今晩のおかずを買った。牛丼風にして一杯やろうということで、牛肉、春雨、豆腐、ホウレンソウを買った。家に帰り、キッチンでフライパンを出し、熱したフライパンにサラダオイルを入れて、ホウレンソウを炒め、頃合いを見て春雨、豆腐を加え、最後に薄切りの牛肉をフライパンに入れた。上から薄口醤油をかけ、ワインを垂らした。暫く蓋をして蒸らしてから食堂に持ってきた。炊飯器のごはんを茶碗によそって、これで完成。

「良子、これから夕飯だ」奥さんに声を掛けて岳生は箸をフライパンに入れた。

その晩岳生に電話がかかってきた。ときどき会ってお茶を飲む友人の尾崎だ。尾崎は友達思いの男で時々電話をしてくる。ゴルフ仲間の中で波長があったのだろう、肩の力を抜いて付き合える。

「近い内に神田で一杯やらないか。ちょっと面白い話もある」尾崎は思わせぶりな言葉を加えて電話を切った。

 

翌日岳生は尾崎に会った。神田駅西口を出て西口商店街を歩き、外堀通りを渡ってすぐのところにあるビルだ。ビルの前で尾崎は待っていた。尾崎の案内でその事務所ビルの屋上に上がると、びっくりすることに屋上菜園が広がっていた。箱状の菜園の中に野菜の苗が植えられている。

尾崎が説明する。「ここに植えてある苗はミニトマト、壁側に植えてあるのはキュウリ。あそこの区画には小玉スイカの苗が植えてある。葉物、実物、根物全部の野菜ができるんだ。屋上で野菜をつくる団体からアドバイザーが月2回来てくれる。いつもは自分達が野菜の世話をしているんだ。」

岳生が聞く。「世話をしているのはどういう人たちなんだい」

 

尾崎は嬉しそうに答える。『「楽農オジサン一杯やる会」っていうんだ。全部で5人いる。屋上菜園で皆で作業をした後、下の居酒屋で一杯やるんだ。居酒屋の店長もメンバーの一人でさ、「今日はこの野菜を使いましょう」なんて言って店に持って帰って酒の肴にしてくれる」

 

岳生は尋ねる。「オレみたいなもんでも入れるのかな」

 

尾崎が言う。「実はルールみたいなものが2つある。一つは会社で何をやっていたか、どんな役職についていたかは話さない、聞かない。もう一つはお互い気がついたことはどんどんほめ合う。この2つだ。知っての通り、日本は会社でも家庭でも「ダメ出し」文化だ。
だから一杯やる会は「ダメ出し」ではなく「ほめ出し」で行く。皆元気になるし、お互いの関係も良くなる」

 

岳生が聞く。「オレみたいな野菜づくりをしたことのないものでもグループに入れるの。できたら是非入りたい」

 

尾崎「一度メンバーに紹介しよう。ちょうど今日の午後3時から屋上で農作業がある。
始まる前に皆さんにキミを紹介するよ。その後の一杯にも出たらどうかな。一次会は大体6時頃には終わる」

それから1週間後、屋上菜園で仲間と一緒に作業をしている岳生の姿があった。岳生は毎週2回、月曜日と木曜日に神田迄出てきて屋上で農作業をして、その後居酒屋で仲間と談笑するようになった。生活にリズムが生まれてきた。ある時農作業の後、居酒屋に降りていくと尾崎からこんな話があった。
 
「エヘン。さて皆さんは日本のオジサンです。日本のオジサンは世界一孤独、という本が出ているくらい孤独で、寂しい存在です。理由はコミュニケーション能力の決定的不足ですね。そこで今日は孤独から抜け出すために2つに絞ってコミュニケ―ション体操をします。いいですか。まず笑顔の練習。目の前の割りばしを咥えて口角を上げて笑ってみてください。顔全体で笑うというのがポイントです。


次は人の話を聞く体操です。自分が話したい気持ちを抑えて、相手の話を聞く。あくまでも相手が主役です。相手に最大限の関心を持って話を聞く。そして区切りごとに相槌を打ってください。場合によっては相手の言葉を繰り返すといいと思います。そうしますと相手は自分の言葉をちゃんと受けとめて理解してくれているんだと安心してくれますから。それでは今日は6人の参加者ですから2人づつペアを組んでやってみましょう。」
 

岳生は尾崎とペアを組んでコミュニケーション体操をやった。

岳生は孤独感からはまだ完全には解放されなかった。解放されることは恐らく一生ないだろうと思うが、最近は孤独感には自分自身の問題も大きく影響していることに気が付き始めた。毎日鏡を見ながら笑顔の練習をしているとなぜか明るい気持ちになってくる。

 

外食をした時、カフェのママに「コーヒーが香ばしくていい味でした」とお礼の言葉を伝えた時、ママの笑顔になんとも言えない美しさが浮かんだ。褒める、感謝するということがいつの間にかできるようになった。

 


ある時、尾崎がビルの一室の工房のようなところに連れていってくれた。そこではオジサンたちが工具を使いながら、椅子、テーブル、物置、木製プランター、グリーンカーテン用木枠などを作っていた。屋上菜園で今後使うアウトドアファーニチャーとのことだった。
木製品の加工を指導してくれる先生が定期的に山梨の甲府市から来てくれる。

 

岳生は尾崎と神田の街を歩きながら、「『楽農オジサン一杯やる会』が神田にドンドン増えるといいな、そのためにも楽しく頑張ろう」との尾崎の言葉に力強く頷いた。頑張っているのは俺たちだけじゃない、屋上の野菜たちも頑張っている。

 

そして呟いた。「本当に孤独を感じるからこそ親密なつながりをつくることができる。私が元気溌剌に生きていくことが家内の最後の言葉に応えることになる。」

 

岳生は顔を上げ、ビルの屋上に声をかけた。
「屋上菜園さん、ありがとう」

END

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