屋上菜園物語
〜第10話〜
<野菜嫌いな夫>
健康診断で夫に大腸がんが見つかった。幸いステージ2だったので、早速手術をした。それでもこれから5年間毎年2回の診断をしなければならなくなった。
富子はこれをキッカケに夫に野菜を食べてもらおうと心に決めた。結婚した時分かったのだが、夫は野菜をあまり食べなかった。
夫は「俺は野菜は嫌いなんだ。どうもあの青臭いのが苦手だ」と言って、いろいろ工夫して調理したけれども食べてくれなかった。
しかし、大腸がんになった今度は、何がなんでも食べてもらい、再発を防がなければならない。そして夫には元気で長生きしてほしい。最近テレビでも健康番組が増えている。腸の健康のためには野菜が効果的というのはよく知られている。
富子は区が主催している高齢者向けのプログラムの一つ、有機野菜栽培講習会に参加することにした。希望者が多かったが幸い抽選に当たり、講習会に参加するようになった。
4月から始まり、翌年の2月迄の約1年間の講習会。菜園は区の建物の屋上に作られていた。1メートル弱の四角い、木枠で作られた箱状の中に土が入っている。
教えてくれるのは2人の講師。一人は元農業高校の教員、もう一人は屋上菜園栽培歴10年の専門家。講習会の参加者は全部で25名。箱状の菜園は全部で5つあった。一つの菜園を5人で使うということだった。毎月2回講習会が開催された。
富子は自分のマンションのベランダで野菜を栽培するために講師の紹介で木製のプランターを2つ購入した。また有機野菜の培養土を併せて購入して、自宅で野菜づくりを始めた。
最初に栽培を始めたのは小松菜と春ホウレンソウだった。少しづつでいいので毎日夫に野菜を食べてもらいたいというのが富子の気持ちだったのだ。
夫の正治は最初はいつまで続くかな、と思っていたようだが、野菜を世話している富子のまるで我が子を見守るかのような様子を見て、ギクリとしたことを覚えている。
いつか富子が言ったことがあった。あの子が生きていたら今頃どうしているかしら。
富子は毎朝、毎夕木製プランターの前にしゃがんで野菜の世話をしていた。
ある時野菜と話している声が聞こえてきた。
「元気に育つのよ。お母さんがいつもそばにいるんだから。講習会の先生も会う度に元気に育っていますか、何か心配なことがあったらいつでも連絡してください、と言ってくださるし」
正治は朝食の時、味噌汁に小さな野菜が入っているのに気がついた。可愛い双葉の間引き菜だった。正治は間引き菜を口に入れた。微かに甘い味がした。
正治は富子を見た。富子は黙って笑っていた。
暫くは小松菜、春ホウレンソウの間引き菜の味噌汁が続いた。正治は喜んで食べた。それは元気になってほしいという富子の気持ち、そのために富子自身が自分のために野菜を育てて食べさせてくれていることへの感謝の思いが正治の中に湧いてきていたからだ。
正治と富子は結婚して既に40年間になっていた。
夫婦の会話の中に、私がいなくなったら、ぼくが死んだら・・・という話題が時々出るようになっている。二人の考えは今住んでいる家をシェアハウスにしていこうという点では一致している。家族の歴史が刻まれているこの家をどちらかが生きているかぎり、守っていこう。
正治は富子と結婚して以来、富子にずっと苦労を掛け通してきたという思いに立ち戻る時がある。正治自身、人生で経験した2つの大きな試練が自分にとってどのような意味があったのか、考え込むことが最近多くなった。そればかりではなく、あの時は自分のことで精一杯で富子がどんな気持ちでいるのかまでは気が回らなかった。
富子はいつも自分の側にいてくれたが、私の混乱に巻き込まれないように適度の距離をとってくれていた。今になってみるとそれが分かる。その時は冷たいと思ったこともあったが、家族を守るためにも賢明な態度だったのだ。
自分の人生をまとめる時期に来ている。自分は一体何を求めてこの人生を歩んできたのか、求めてきたものが見つかったという達成感はまだ持てないでいる。このまま終わってしまうのか。正治にある時、これからの残りの人生を富子の幸せのためにささげていきたいとの思いが与えられた。
今の自分にできることは富子が育ててくれている野菜を喜んで食べることだ。
富子は「この野菜はお店で買う野菜と違って有機栽培しているお野菜なの。農薬も化学肥料も使っていない、お野菜の自然な味がするわ。そして私の愛情のこもったお野菜」最後は笑い声になった。
正治はまだ富子には言ってないが、野菜の効果を確認していた。それは「快便」だ。トイレに入ってすぐに便が出るようになった。スッと一本出る。ということでトイレにいる時間が2,3分間になった。快便は快眠につながる。快便、快食、快眠とは昔の人は良くいったものだ。
富子は食事の時に野菜栽培の話をしてくれる。ある時は講習会の講師が「野菜と対話をしてください。現代は情報発信、受信が盛んにおこなわれていますが、本当の意味での対話が少なくなってきています。人との対話、自然との対話を大切にしてください」と言ったことを話題にして、「私たちも対話をしましょう。対話よ」と釘を刺した。
正治は定年退職後知り合い、うまのあう仲間と3ケ月に1回旅行をするようになっていた。
今回は新潟県上越市に二泊三日で来ている。仲間の一人がワインに詳しい。上越市には日本のワインの父と言われる川上善兵衛氏のブドウ園がある。そこを訪問して夜は旅館に泊まり、3人でゆっくりといろいろな話をしようというわけだ。着いた晩は12時すぎまで語り明かした。
翌朝、正治は6時頃目を覚ました。2人はまだ寝ている。
絵葉書を取り出して正治は富子宛に書いた。
「今上越市にいます。昨日は美味しいマスカットベリーAのワインを飲みました。このように平凡でも穏やかな日々を過ごせているのは、富子さん、あなたの御蔭です。あなたと結婚してから、自分のことをいつも先に考える自己中心的生き方、何かを求めているのに、求めているものが分からないため、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりの無駄の多い人生行路に付き合わせてしまいました。よく我慢してくれたと思います。こんなぼくを見放さないでいてくれたことに感謝しています。
これからは富子さんを幸せにすることを第一に考えます。今迄二人の結婚生活には辛いこと、悲しいことがありましたね。それを乗り越えてこれたのは富子さんが側にいてくれたからです。私のような弱い人間は一人でいたら倒れていたことでしょう。これからは一日一日を大切にして幸せな毎日にしていきましょう。今迄本当に済まなかった。そして本当にありがとう」
旅行から帰ってきた日から暫く経った時、ベランダに見慣れない野菜が2本、木製プランターに植わっていた。聞いてみるとえごまとのこと。1本は葉取りの種類、葉を取って食べることができる。もう一本は種用とのことだ。えごまは、特に油は認知症の予防に効果があるとされている。古くから日本で食用にされてきた国産オイルだ。一番大きな特徴は動脈硬化や心筋梗塞、脳卒中などの生活習慣病の予防効果だ。
正治は富子に聞いた。「えごまを選んだ理由は何なの?」富子の返事。「アルツハイマー病にならないためよ。お互いのことがわかなくなったら悲しいでしょ。」
正治と富子は毎朝ヨーグルトと一緒にえごま油を摂っている。一日4グラムでいい。だから100円もかからない。これで生活習慣病が予防できればありがたい。えごま油は島根県川本町産だ。
富子はえごまに話しかけている。「私たち夫婦にとってこれからがとても大事なの。うれしいことも苦しいことも二人で経験し、分かち合っていきたいの。えごまパワーを私たちにくださいね。お願いします」
END