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屋上菜園物語

 

〜第12話〜

<野菜の花言葉>

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西谷桃子は毎朝4階の部屋の引き戸を開け、屋上ガーデンに出る。ガーデンの約半分が菜園になっている。桃子は朝一番で菜園に入り、野菜達に声をかける。「おはよう!今日も一日元気でいてね」。一通り野菜の様子を見てから、部屋に戻り、朝のコーヒーを淹れる。

コンクリート製の4階の建物の2階、3階は賃貸で貸し出している。それが桃子夫婦の毎月の生活費の半分ほどを賄っていた。1階は夫の事務所と桃子の花屋だ。5年前、桃子は夫と一緒にこの家を建てた。土地は既にあったので必要なのは建築費だけだったが、それでも8000万円ほどかかった。夫婦で4階に住み、一緒に屋上菜園を楽しんでいる。今では夫婦の会話の大半は野菜づくりに関することだ。子供のいない夫婦にとって共通の話題があるというのは大きい。

桃子は若い頃、一時有名になったガングロ族として原宿の街で遊んだことがあった。
父は中小企業の経営者で仕事中心の日々、家庭のことは殆ど顧みることがなかった。桃子は一人っ子だった。そして桃子が20歳の時、短大を卒業した年、母は乳がんで亡くなった。
それがキッカケになり桃子は髪を金髪に染め、顔、腕を黒く塗った。今迄の自分とまったく違う人間になりたかった。家にもあまり寄り付かなかったが、父親はそんな桃子を自由にさせていた。桃子は遊ぶお金が無くなると家に戻り、父親にお金を無心した。父はその都度、まとまったお金をくれたが、「身体だけは気をつけるんだよ」と必ず言ったものだ。

 

ガングロ生活に飽きたころ、桃子の友人のK子が山梨県の牧丘町で夫と一緒に有機農業をやっているので、遊びに来ないかと誘いがあった。桃子は農業の経験もなく、農業にそれほど関心はなかったが、地方での自然に近い生活にはなんとなくあこがれていた。田舎生活が経済的にも、それから近所付き合いも含めてそれほど容易ではないことをそれとなく知っていたが、折角の誘いでもあり、泊りがけで行くことにした。

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当日友人のK子が塩山の駅に車で迎えに来てくれた。塩山から北に向かい、牧丘町に入り、千曲川の支流の鼓川沿いに上がっていったところにK子の家があった。平らなところが少ない土地でK子の家は緩やかな斜面を土盛りして整地したところに立っていた。昔風の民家で、2階では以前は蚕を育てていたとのことだった。

 

K子はこころづくしの夕食を準備してくれていた。ご主人と3人で囲む夕食。
K子「田舎だからたいしたものはないけど、今日の料理の野菜は全部私たちが育てたの」
桃子「美味しい。なんか久しぶりにちゃんとした食事をしているって感じ」
K子の夫はここに来る迄は東京の世田谷の方で豆を中心としたレストランをやっていたが、豆料理で使ういろいろな豆をどうしても自分で育てたい、という気持ちになってここに移住してきたこと、そして古民家に手を入れて豆のカフェ・レストランを開店したいきさつを詳しく話してくれた。
「若いからできたことなんだと思うわ」とK子はちょっと夫を睨む。
K子の夫「大自然が自分の心身を癒してくれるんです。仕事の合間に店の外に出て、風に吹かれているといつの間にか幸せな気持ちになれます。生命に溢れた風です。それから夜空一杯の星。最初、星空を見た時は星だらけで、それはそれは仰け反るほどびっくりしました」

 

桃子は素朴な雰囲気の夫婦と話をしながら、ご主人が作った豆料理を楽しんだ。
桃子「K子、なんかうらやましい生活をしているね。よく田舎の生活は経済的にきびしいって聞くけど生活の方は大丈夫なの?」
K子「大丈夫よ。夫はお店の方で忙しくしているの。SNSの時代でしょ。こんな山奥のカフェ・レストランに結構お客様が来てくださるの。その口コミで新しいお客様がわざわざ来てくださるので、本当にありがたいわ。私は牧丘町の地域起し協力隊として活動しているの。牧丘町の行政や民間事業者、地域住民とやりとりをしながら都会からの移住者の受け入れ体制を整える仕事をしているわ。ブログを使って全国に牧丘町の魅力を発信しています。地域起し協力隊には年間100万円以上が支払われるからとても助かっている。ただこの協力隊の任期は3年間だけだから、4年後には豆カフェ・レストランを軌道に乗せていないと。」

 

 

久しぶりで話は尽きなかったが明日の起床が5時と聞いていたので、お風呂に入ってすぐに床についた。お風呂は太陽光で沸かしていた。トイレは洋式トイレ。午後10時が就寝時刻で、朝は5時から活動開始とのこと。以前の自分は夜通し起きて遊んでいた。何をしていたんだろう。

 

 

翌朝、5時過ぎに起きて2階の寝室の窓を開けたら濃い霧がかかっていて何も見えなかった。暫くすると霧が流れ視界が晴れてきた。田んぼの向こうに花々が咲いているのが見えた。靴を履いて引き寄せられるように外に出て花が咲いているところまで行ってみた。
桃子は花の種類はあまり知らなかったが思わず口をついて出た言葉は「野のゆり」だった。子供の頃、母に連れられて近くの教会学校に通ったことがあった。本当に山百合が咲いていた。
その姿を見て桃子は思わず立ちすくんだ。
 

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K子の家には二泊三日した。仰け反るほどの星空も見た。家の周りは野原だった。いろいろな花が咲いている。その時、桃子は思った。

 

「私も野の百合のように咲きたい」
 

 

 

桃子は牧丘町から戻ってきてから、完全にガングロ生活を止めてお花屋さんになるための専門学校に通うようになった。フラワーアレンジメント科で一年間のコースに入った。そのころ神田のちよだプラットフォームの屋上で野菜づくりが始まり、ある団体の主催で「ちよだベジカフェ教室」が開催された。そこで4月から9月迄の半年間、月2回ちよだプラットフォームの屋上に通いつづけ、有機野菜づくりの基本を習うことができた。講習会の前半45分間は屋上で実習、後半45分間は1階のカフェで座学という形。肩の凝らない楽しい講習会だった。講師の先生は2人で年配の男性とアシスタントの若い女性だった。

 

1年が経った頃、桃子の叔母から手紙が来て、今マレーシアのキャメランハイランドの近くで仕事をしているが忙しくなってきている。良かったら手伝いに来てくれないかとの誘いだった。叔母はキャメランハイランドの山間部でイチゴの栽培と生け花用の花の栽培をやっていると手紙に書かれていた。写真も数枚同封されていた。
桃子は思い立ったら実行するタイプだ。叔母さんのことはよく知っている。亡き母の妹でマレーシアの日本人学校の教師として赴任後、現地のインド人と結婚したと聞いていた。
父親に桃子はマレーシア行きを伝えた。父親は「あの叔母さんのところにいくなら大丈夫だろう。ところで何年ぐらいいるつもりなんだ」と聞いたが、桃子は「行ってみないと分からない」と答えた。父親は寂しそうな表情を浮かべていた。

 

 

5月の五月晴れの日、桃子はマレーシア航空で成田を出発、約7時間後にクアラルンプール国際空港に到着した。叔母さんは出口のところで待っていた。すぐに国内航空に乗り換えてキャメランハイランド近くのイポーに向かった。叔母さんの家は丘陵地帯の高いところにあった。別荘のような建物だった。

 

その晩早速インド人のご主人も交え3人で夕食をとった。ご主人の名前はダト・グーンティン。ダトはマレーシアでは社会的功績のあった人に与えられる称号とのことで、グーンティンさんはマレーシアの公共事業省に勤務し、特に農村部の灌漑工事に長く携わってきた技術者だった。5年前役所を辞めて、現在はイチゴ栽培と花の栽培事業を行っていると話してくれた。叔母さんは「マレーシアではマレー人優先政策がとられていて政府のそれぞれの部門のトップにはマレー人がなるのよ。インド人、中国人はトップになれない仕組みになっているの」 
夕食はマレー風のカレーだった。ご主人も叔母さんもスプーンを使わないで、右手を使って食べていた。
夕食後桃子がこれから住む部屋に叔母さんが案内してくれた。床が板張りの大きな窓のついた2階の部屋だった。トイレとシャワーはついていたがバスルームはなかった。

 

叔母さんは言った。

「桃子ちゃんにはここにいる間、私がやっているお花の栽培を手伝ってほしいの。農薬を使わないオーガニックフラワーをハウスの中で栽培しているわ。主なお客様はキャメランハイランドに住んでいるヨーロッパ人とペナンにあるオーガニックを売り物にしているホテルなの」
桃子は専門学校で学んだことを実地に活かせる機会と考えていたが、実際に生きた花々に接するうちに花の魅力に取りつかれていった。半年経った頃、叔母さんが言った。「桃子ちゃんはお花が本当に好きなのね。これからは桃子ちゃんにお花の栽培を任せていきたいわ。」

そのような時、日本から電話が叔母さんのところに掛かってきた。父の弟からだった。
「兄さんが急病で倒れた。医者によればここ1週間の生命とのことで、兄さんは桃子に会いたがっている。一時帰国させてほしい」
桃子はその日の晩の夜行便で日本に戻った。父の入院している病院に翌朝空港から直行した。

 

「お父さん、桃子よ」

 父親はうっすら目を開けて、桃子に言った。
「桃子、すまなかった、ほんとうにすまなかった」

言い終えた後、静かに息を引き取った。
 

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桃子は父の葬式に出た後、すぐにマレーシアに戻った。

 

 

それから2年半、桃子は無我夢中で働いた。
3年後、叔母さんが言った。「桃子ちゃん、長いことありがとう。桃子ちゃんと一緒にお花の仕事ができて本当に幸せだった。それで最近叔母ちゃんは思ったの。桃子ちゃんは日本に帰ってお花屋さんをやったらいいんじゃないかしら、って。
実は最近桃子ちゃんのお母さん、夢に出てきてそういうの。桃子ちゃんと別れるのは寂しいけど、それが桃子ちゃんにとって一番いいことだと思うわ」

マレーシアから帰国後、桃子は1年間池袋のデパートの中にある花屋に勤めた。そこで販売の基本を身に付けた後、池袋に近い商店街でお花屋を開店した。開店費用は父の遺産を使わせてもらった。

 

お花屋のお客様にカフェがあった。そのビルのオーナーが経営しているカフェで、そこのオーナーに気にいってもらえた。

 

ある日、オーナーから話があった。「私の息子があなたのことをとても気にいっているの。できたら一度会ってくれないかしら」
ちょっと坊ちゃん的だけど優しそうだ。それが桃子の印象だった。半年間付き合った後で結婚することになった。結婚のためお互い健康診断をした時、男性の方に初期のガンが見つかった。男性はこんなボクと結婚しなくてもいいんだよ、と伝えたが、桃子ははっきりと言った。

 

「あなたと結婚します」

 

 

夫はガンの後遺症で車椅子生活だが、以前からやってきた行政書士の仕事を続けている。1階の半分は夫の事務所で、残り半分が桃子のお花屋のお店だ。桃子は今迄のお花の仕事の他に老人ホームの屋上菜園で野菜を栽培し、ハーブ、季節の花を育てる仕事もしている。

花には花言葉がある。野菜にも色とりどりの花が咲く。桃子は野菜の花言葉集を作っている。
「ダイコンは風になる銀の鈴のよう 花言葉は 喜びの中の悲しみ」

桃子の心の中には「野の百合」がいつも咲いている。

 

 

屋上菜園の野菜達が夕陽に染まってきた。

​ 

 

 

​(完)

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