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屋上菜園物語

 

〜第13話〜

<老人ホーム>

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水田隆志が老人ホームで暮らすようになってから半年が過ぎた。入居者20名の小さな老人ホームだ。毎日のスケジュールが決まっているので、規則正しい生活は送れるが、自由にできることは限られている。テレビで好きな番組を見たり、趣味で色紙に好きな言葉を筆で書いたりしているがそれでも時間を持て余す。そして最近しばしば「このまま生きていても何の意味があるのだろうか」という思いがさざ波のように繰り返し襲ってくる。特に辛いのは真夜中に目が覚めた時だ。部屋には自分独り。


手元に置いてあるラジオでNHKのラジオ深夜便を聞く。今晩は昭和40年代前半の歌謡曲を放送している。隆志は若い時、ムード歌謡が好きで、ロスプリモスの「たそがれの銀座」(昭和43年)、ロスインディオスの「コモエスタ赤坂」(昭和43年)を聞きながらまだ行ったことのない別世界、銀座、赤坂に想いを馳せたものだ。

ムード歌謡のグループの中で特に好きだったのが鶴岡雅義と東京ロマンチカだ。「小樽の人よ」(昭和43年)。聞いているうちになんとも物狂おしい気持ちになってきた。懐かしさと淋しさと取返しのつかない辛さと悔いが一緒になって心の底から湧き上がってくる。昭和という時代が懐かしさと暗さの顔を見せながら手招きしているようでもある。隆志は天井を見上げ、そこからこの自分を見下ろしているかもしれないもう一人の自分を見据えた。そして言葉を投げつけた。「あんたはこの俺のことをどう思っているんだ」。

・・・・・・・・答えは

ない。


眠れないまま、隆志はあの日のことを思い出していた。その時の様子がスローモーション映像のように蘇ってくる。いつものように朝の散歩をしていた。アパートの近くにある小さな丘に上がり、道を降りてくる途中、道端に小さな白い花を見つけた。なぜかその花を摘もうとして屈んだ時、身体の重心を崩し、そのまま道端の法面を転がって下まで落ちてしまった。当たり所が悪く、頭を損傷してしまった。脳内出血のため下半身に障害が出てしまった。歩くのがやや不自由だ。それまでは自分の足でどこへでも行くことができた。
不自由な自分をなかなか受け入れることが出来なかった。できればこのまま死んでしまいたい・・・何度そう思ったことか。


隆志は建設労働者だった。正確に言えば農閑期の出稼ぎ労働者だった。

少ない田畑だけでは食べて行けなかった。稲を収穫した後、毎年東京に出てきて土木関係の工事会社で働いていた。土木の工事会社の社長が同じ村の出身でそのコネでその会社で働くようになった。この工事会社は二次下請けでどんな仕事でもやった。隆志も若い頃は飯場暮しをした。埼玉県南部の高速道路の建設現場に入った時、その飯場の建物の広さに隆志はびっくりした。窓の傍には布団が積み上げられていた。賄いのおばさんたちが作る夕食を食べた後は焼酎を飲みながら、新聞紙の上に積みあげられたニンニクを齧りながら仕事仲間と今日の作業のこと、明日の段取りなど話し合った。

打ち解けてくると故郷の話も出た。気晴らしに休みの日には現場近くのパチンコ屋で遊んだり、女性のいるスナックにも行った。飯場には落ち着いた普通の生活感というようなものはなかった。荒んだ気持ちになる一歩手前でなんとかこらえているという状態だった。隆志の楽しみはトランジスタラジオだった。イヤホンで毎晩のように歌謡曲と野球中継を聞いていた。


飯場では喧嘩も日常茶飯事だった。現場は一歩間違えると怪我をしかねない。当時はリベットを使う工事も多く、受取りそこなった真っ赤に焼けたリベットが落ちてきて火傷する事故もあった。それどころか鋼材など資材の下敷きになって死ぬこともある。最後は酔い潰れてせんべい布団の上に身を横たえた。朝が早いので飯場の消灯は10時だった。隆志は田舎に残してきた子供たちのことを思いながら眠りにつくのが常だった。
「いろんな現場で仕事をした。辛い思い出が殆どだ、いい思い出はあまりなかったな・・・。」
そして隆志もいつの間にか60歳を超していた。
事故の後、すぐに田舎から妻と息子がやってきた。暫く病院で治療をした後、リハビリ施設に移り、それから施設に移ることになった。施設は東京の西にある社会福祉法人が運営する身体障碍を持った老人を受け入れている施設で毎月の料金は家族で何とか払えるギリギリの金額だった。息子は田舎の市役所に勤めている。息子は農業を継がなかった。田畑に出るのは土日だけだ。その分妻が頑張っている。

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隆志は最近老人ホームの2人とよく話すようになった。なんとなくウマがあう。以前ビル管理会社に勤めていた藤崎雅人と洋品店の店主だった大岩正次。二人とも水田より歳上だ。藤崎と大岩は最近この老人ホームの屋上にできた菜園施設で野菜の手入れをしている。
隆志は今更野菜作りなんてと思い、二人の誘いを断っていたが、「気晴らしで屋上に上がってみたら」と声を掛けられ、他にやることもなかったので、一緒に6階の屋上に上がってみた。上がってみてびっくりしたのは見晴らしのいいことだった。360度グルッと街並みが見える。スカイツリーがぼんやり霞んで彼方に聳えている。
藤崎と大岩の二人が車椅子から降りて何か球根を植え付けている。
「こんな浅い土で根物野菜ができるんですか」と言いながら隆志は2人に近づいて行った時、思わず声をあげた。

 

「チョロギ」ですね。
「そうですよ、良く知っていますね」
「私の田舎でもチョロギを作っていたんです。お節料理で梅酢で赤く漬けたチョロギを黒豆に添えたり、茹でたり、天ぷらにして食べたもんです。イヤー、懐かしいなぁ」


藤崎の田舎でも、大岩の田舎でもチョロギを栽培しているという話になって、一挙に3人の関係は深くなった。チョロギが取り持つ縁だった。
それがキッカケになって3人が一緒にいる時間が長くなった。ある時、3人それぞれ好きな歌謡曲を3つ挙げようという話になった。
藤崎は鶴田浩二の「好きだった」三波春夫の「チャンチキおけさ」春日八郎の「山の吊橋」大岩は井沢八郎の「ああ上野駅」東海林太郎の「名月赤城山」三笠優子の「夫婦橋」三人の中で一番若い隆志は、岡林信康の「山谷ブルース」桂銀淑の「すずめの涙」、森進一の「新宿みなと町」

 

大岩

「藤崎さんも私も70歳を超えているせいか、懐かしいけど古い歌だね。でも古い歌にはどこか強い真実さが感じられるんだ。それぞれ最初に挙げた歌について自分なりの思い入れをちょっと話しませんか」


藤崎

「いいですね~。じゃあ私が一番バッターで。私は鶴田浩二の「好きだった」を最初に挙げました。若い頃、好きな女性がいました。彼女は自分のことが好きだと言ってくれましたが、私には相手の女性を幸せにする自信がなかった。却って不幸にしてしまうような気がして、彼女に「好きだ」と言うことが出来なかった。結局自分から身を引く形で別れました。本当に自信が無かった。人を愛せる自信、幸せにするための生活力、それが自分の中には一かけらも無い。頭でっかちの空想家だったんです。二番の歌詞を私はまだ心のどこかで引きずっています。「笑うつもりが 笑えずに 顔をそむけた 悲しみを 今も捨てずに いるくせに」。・・・・・・次水田さん、いかがですか」


水田

「私の場合は岡林信康の「山谷ブルース」です。山谷に住んでいた訳ではなく工事会社の寮で寝泊まりしていましたが、気分的には歌詞に近いものがありましたね。特に4番はその通りだと思っていました。

『人は山谷を 悪くいう だけど俺たち いなくなりゃビルも 道路もできゃしねえ だれもわかっちゃ くれねえか』。

高度成長期の日本はまさに日本列島改造ということで土建国家日本という感じでした。だけど土建の仕事は結局現場で生身の人間がやるわけですよ。労働条件なんてそんなもの、実際なかった。私たちは汗水流した、そしてある意味で私たちの犠牲が無ければ、橋もトンネルも道路も港もできはしなかった。でもそんなことはだれもわかっちゃくれねえ、と岡林は歌っています。本当にそうだと思いましたね。」


大岩

「藤埼さん、水田さん、ありがとうございました。私の場合は井沢八郎の「ああ上野駅」です。私の実家は農家で、私は4男でしたので、田畑を継ぐというわけにはいきませんでした。それで中学を出てすぐ東京の横山町の繊維問屋で働くことになりました。休日は月2回しかなくて働き詰めの毎日でした。

会社の寮はすぐ近くにあって朝昼夕と食事がでましたが、最低限の定食という感じで、食べ盛りの私はいつもお腹を空かしていたんです。よく上の人から怒られました。寮の屋上に上がって故郷の方に向かって叫びました。
田舎に帰るわけにはいかない。「おかあちゃん~、おかあちゃん~」三番の歌詞に「お店の仕事は 辛いけど 胸にゃでっかい 夢がある」とありますが、当時の私には夢なんか無かった。」


大岩がある朝、2人と一緒になった時、嬉しそうにこう言った。今朝野菜の手入れをしていた時、こんな言葉を聞きました。「人生、やり直すことはできませんが、『生き直す』ことはいつからでもできます」そのためにはゆっくり生きることです」。ちょっと弱っていたピーマンの内側の枝(内向枝)を整理している時、ピーマンが語りかけてくれました。」

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『太陽の光の当たりにくい内側の枝を切ってくださり、残した枝にもっと光が当たるように枝を拡げてくださりありがとうございました。また追肥もちょうど欲しい時だったので助かります。太陽の光を浴びてもう一度大きな実をつけますよ。楽しみにしていてください。そして大岩さんも藤崎さんも水田さんも是非ゆっくりと毎日を生きてくださいな。人間はどうしても急ぎ過ぎてしまいます。今こそ大事なことは「ゆっくり」です。私たち野菜は焦ったり、急いだりしません。生きるリズムを大切にしながら、ゆっくりと着実に生長していきます。たとえ明日収穫されることになっても今日をゆっくり生きていきます。覚悟を持って。』」
隆志は大岩に聞いた。「私たちのような身体が不自由な者でも『生き直す』ことができるんでしょうか」。大岩は答える。「生き直すために一番大事なことは『意識』です。思いを、考え方、つまり意を変えれば生き直すことができる。ピーマンはそのように言っていると私は受けとめています」
藤崎は微笑して付け加えた。「私が生き直すために心掛けていることはどんなにささやかでも周囲の人に安らぎを与え、希望をもたらすことです。私がやることですから大したことはできませんが、また失敗もありますが、生き直すことがこれからの人生の目標となりました。別の言葉でいうと『一隅を照らす』ですか」。
隆志は故郷の妻と息子に久しぶりにはがきを書いた。
12月にチョロギが収穫できたら送る、そして毎日友にも恵まれ元気に生活している、と。

屋上菜園ではチョロギが茎葉をグングン伸ばしてきた。

                                     END

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