屋上菜園物語
〜第16話〜
<寂しさのはてなむ国>
本間寛は路地に面したアパート2階から引き戸を開けてタバコに火をつけた。自分と同じくらいの老年の男性がリュックを背負ってうつむき加減に歩いていくのが見える。その後ろ姿を見送ってから寛はガタガタと音をたてる引き戸を閉めて、座布団の上に座り、ぼんやりしていた。いつの間にか夕日がスリガラス越しに部屋に中に差し込んできている。
何もすることがないので、近くの公園にぶらっと出かけた。歩いて5分ほどのところにある小さな公園だ。桜の木が数本植わっている。今年の4月、缶ビールを持ってこの公園に来た。一人でビールを飲み、一人で桜の花を愛でた。今は桜の枯葉が足元で風に吹きまわされている。季節の移り変わりがなんと早いものか。寛の頬を夕陽が染めている。
寛は夕暮れの紫がかった空を流れる雲を見ながら、小声で歌い始めた。杉本まさとの「吾亦紅」。昔の母という立場、役割を生き切った母と比べて自分はなんと浮草、流れ草のような人生を送ってしまったものか。今度は自分のわがままでそんな自分を支え続けてくれた妻と別れることになった。いつまでもこんな自分に付き合わせては申し訳ない、妻を自分から自由にしてあげたい。これ以上迷惑はかけられない。そんな気持ちさえ、自分勝手で無責任としか言いようがないのかもしれない。
そんな自責の気持ちが母に対してだけでなく、妻に対しても、この歌には込められているのだろうか。寛はもう一度歌った。
寛の妻、公子は現在特養老人ホームに入っている。今年の春迄一緒に暮らしていたが、認知症が進み、予想もしていなかったことだが、夫である自分に罵詈雑言、暴力をふるうようになった。下の世話もしなければならなかった。暫く様子を見ていたが、自分にはこれ以上世話が難しいと判断して近くの特養老人ホームに入ってもらうことにした。
寛は親の書店業を継いだ。場所は市ヶ谷で、学生もサラリーマンも多く経営は順調だったが、将来のことを考え、建物を建て替え、5階建ての貸事務所ビルにした。その1階でずっと書店業を続けてきたが、3年前に廃業し、1階もコンビニに賃貸で貸している。幸いなことに5フロワー全てにテナントが入っているが、建設資金の銀行返済が毎月かなりの金額になり、それほど余裕があるわけではない。毎月の特養老人ホームへの支払いにメドをつけて、公子を老人ホームに入れた。公子は嫌がったが、今は妻との距離を置く時なのだと自分なりに理由もつけてのことだった。
毎週老人ホームに行き、公子と面会するが、「家に帰りたい」と必ず言う。私は「職員の皆さんの言うことを聞いて迷惑をかけないように」とたしなめる。老人ホームからの連絡によれば、ホームの中では公子はおとなしくしているとのことだが実際は手を焼かせているかもしれない。
アパートの2階に戻ってきて寛は夕食を準備した。納豆、豆腐、サバの缶詰。公園からの帰り道、コンビニで買った野菜サラダの詰め合わせ。自分が病気で倒れたらどうしようもなくなる。せめて自分は元気でいなくてはいけない。テレビの健康番組を参考にしながら、寛は健康に良い食べ物をとるように心掛けている。
食事をしながらテレビを見ていると最近特に老人ホームの中の事件、家族の中の事件が増えているように感じる。何かタガが外れた、辛い時代になっているのかもしれない。
以前寛は廃業してやっと二人だけの時間が取れるようになった時、公子に言った。「二人で国内旅行をしよう。どこに行ってみたい?」。公子は友人のいる場所を3ヶ所挙げた。能登半島の輪島、北海道の札幌、そして大阪。「観光だけじゃなくて、そこに知り合いがいるのがいいわ。」公子はそれぞれの場所毎に夫婦共通の友人の名前をあげた。
寛も二人で行きたいところがやはり3ヶ所あった。熊本県の天草、福島県の大内宿、秋田県の八郎潟。ところが公子に認知症が突然出て、一緒に旅行に行くのが難しくなった。
何年か前、二人は伊豆下田に1泊2日の旅行に出たことがあった。下田市街から少し離れたホテルに泊まった。夜は露天風呂から下田港の灯が見えた。夕食にはお約束の金目鯛の煮付けがでた。翌朝はホテルで朝食後、チェックアウトして下田の町をゆっくりのんびり歩いた。道路脇に花を植えたプランターが置いてある。花の多い街だ。由緒のあるお寺に2ヶ所ほど立ち寄った後、ランチは街中を流れる川の傍のレストランで取った。午後はペリー来航の場所迄足を延ばした。その先の岸壁では釣り人が大勢いた。何枚か写真も撮った。・・・そんなことを思い出しているとふいに涙があふれてくるのを感じた。
寛は下田市の南隣の南伊豆町の下賀茂温泉に行くことにした。気分転換を兼ねた2泊3日の旅行だ。知人がペンションを経営している。知人は下田駅迄車で迎えにきてくれた。彼とは学生時代からの長い付き合いだ。サラリーマン生活を切り上げて10年前に下賀茂にペンションをオープンした。自分のところの農園を持って有機野菜を宿泊客に出している。昼食後、近くの熱帯植物園に連れていってくれた後で、折角ここまできたのだから石廊崎迄行こう、ということで足を延ばした。海の色が濃い。寛は太平洋の大海原に暫く見とれていた。宿泊客が少なく彼とは積る話をした。ペンションの経営はなんとかうまく行っているが、後やっても10年くらいかな、とのことだった。
翌朝彼の農園を見た。ゆるい傾斜面にある畑だ。まだ朝食迄時間があったので畑迄歩いて行った。今は晩秋なので秋冬野菜だ。寛は野菜の種類については詳しくないが、ブロッコリー、ホウレンソウ、シュンギク、キャベツ、レタスが育っているのは分かる。そして一際目立つのが土の上に白い肌を見せているダイコンだ。朝風の中で葉がさざ波のように揺れている。
寛は秋の野菜を見ながら、自分の人生も春、夏が終わり晩秋に近づいている、そして失敗の多い、寂しい人生だったなと心の中で呟いていた時、思わず若山牧水の「幾山河こえさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」が口をついて出てきた。ダイコンの傍に寄り寛はダイコンに話しかけた、というより呟いた。「自分は今とっても寂しいんだ」
ダイコンは暫く経ってから応じた。
「確かに寂しそうな顔をされていますね。でも寂しさって何でしょう。私たちは種を播かれ、芽を出し、葉を伸ばし、根を伸ばし、根を太らせ、花を咲かせ、種をつけていきます。単純と言えば単純な一生です。しかし私たちは人々が、ここに住み着き、畑をつくり、野菜を育ててから何百年間もここで繰り返し、繰り返し生きてきました。私たちを必要とし、育ててきてくれた人々がいたからこそできたことです。
寂しさは自分が誰からも必要とされていない、というところか生まれてくるのかもしれませんね。他の人から必要とされるためには、まずご自分がご自分を大切にするという気持ちが大事なのでは・・・。
生意気なことを言いました。生意気ついでに私は「寂しさのはてなむ国」は永遠の国と思っています。そしてこの私たちが今いる場所が永遠の国です。」
寛はダイコンに答えた。
「そんな風に言ってくれてありがとう。言ってくれたことはよく分かるんだけど人間って複雑なんだ。最近つくづくそう思う。・・・しかし単純に生きる、というのが簡単じゃないけど今の自分には必要なのかもしれない」
ダイコンが励ますように言った。
「生きる、真っ白な気持ちでひたすら生きることに徹したらどうでしょうか。余計なことを考えず、他人の人生と比べたりしないで、ただ今を生きる。私たちはそうしています。私たちは背中をまっすぐ伸ばして天と地の間で生きています。一生の辛さ、喜びも感じていますよ。それが私たちの辛さ(からさ)であり、甘味でもあるのです」
ダイコンは微笑むかのように葉を揺らした。
単純に生きる、ただ生きる、まっすぐに生きる・・・自分でもう一度口にした時、なんとも言えない爽やかな気持ちで心が満たされた。こんなことは初めてだった。そして改めて自分の人間としての弱さ、甘さに思い到った。ダイコンのように一人で生きる強さを自分も待たなければならない、と。
***
寛は旅行から帰ってきてすぐに、区役所に行き、社会福祉協議会にボランティア登録をした。小銭を稼ぐアルバイト的なことより小さくとも社会的価値のある仕事をしたいと思ったからだ。暫くすると社会福祉協議会から連絡があった。近くの大きな特養老人ホームが屋上菜園の野菜を使った地域交流をするので、そのコーディネーターの手伝いをしてほしいという話だった。
当日コーディネーターが地元の親子を10組連れてきた。屋上菜園の野菜の葉と花を入居者と子供が一緒に収穫した。それを使って、一つは押し葉を作る工作、もう一つは葉と花を細かくちぎって手製の万華鏡に入れる工作。日頃子供達と触れ合う機会の少ない高齢者は一緒に作業しながら笑みを浮かべ、笑い声さえ立てている。寛も実際にできた万華鏡の中を見た。「野菜でもいろいろ面白いものができるんだ。」それは寛にとって大きな発見だった。
この屋上菜園を管理し、野菜栽培を指導し、菜園カフェタイムを担当しているAさんをコーディネーターが紹介してくれた。Aさんは都市の屋上菜園関係の事業を展開しているある一般社団法人の役員の一人だった。Aさんは屋上菜園がなぜこれからの時代に必要なのか、寛の質問に答えながら丁寧に説明してくれた。
Aさん「もしよろしかったら私たちの栽培管理の作業を手伝っていただけませんか。私たちがこの屋上菜園に来るのは月2回です。職員さんにもお世話をお願いしていますが、日頃のお世話をお願いできれば助かります。私たちと一緒に作業する日は別にして、まず週1回ぐらいでどうでしょうか。手入れの仕方は私たちがお教えしますよ。」
その時、寛はそんなことでお役に立てるなら、と即座に快諾した。
「分かりました。是非やらせてください」
寛は屋上で野菜栽培ができるとは思っていなかった。屋上で野菜を栽培するためにはそれに合った土壌と栽培方法があることを教えられた。Aさんがマニュアルを見せてくれた。
「このマニュアルを使って今後現場で現物を見ながら説明していきますね」
絵と写真の多い分かりやすそうなマニュアルだった。
「本間さんですね。これから一緒に作業できるのが楽しみです。本当に助かります。」
Aさんは自分より少し年上のようだ。笑顔が優しい。
別れ際、寛は「よろしくご指導の程お願い致します。」と頭を下げた。
寛は自分が住んでいるアパートの屋上が空いていることに気がついた。いつもは物干し干し場として使っている。大家さんは近所のおばあさんだ。頼まれてこのアパートに住んでいる。かん水の水は水道の蛇口が無いのでジョーロで運ぶことにした。おばあさんのところへアパートの屋上にプランターを置いて野菜づくりをしたい、と使用許可を求めに行ったら、「どうぞ、どうぞ」と言ってくれた。
自分の住んでいるところでも、老人ホームでもこれから野菜づくりができる。寛にとって野菜づくりは生甲斐づくりになりそうだ。野菜づくりを通じていろいろな人と出会い、普段着の気持ちでコミュニケーションを持つことができる。そして寛は南伊豆町の下賀茂温泉で出会ったダイコンの姿と会話を折りに触れて思い出すのだ。野菜は育てて食べるだけではない、野菜の一生から教えられ、気付かされることがある。私も野菜と一緒に生きていこう。
ある日、寛は公子の老人ホームに行った時、アパートの屋上で育てて収穫したホウレンソウを持って行った。最初公子は怪訝な顔をしていたが、寛がアパートの屋上で野菜づくりをしていることを話すと「良かったわー、私あなたのことがずっと心配だったの。」と認知症とは思えない真顔で返事をしてくれた。今日は調子がいいようだ。この老人ホームでも屋上菜園を検討していると若い職員が説明してくれた。寛は「是非設置してください」と伝えた。それを聞いた公子が「その時は私も野菜づくりに参加させてください。」
嬉しそうにほほ笑んだ。
(完)