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屋上菜園物語

 

〜第20話〜

<今、ここを生きる>

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緑川研志は甲府駅から身延線に乗り換え、山梨県南部町に向かっていた。平日の午後のためだろうか、乗客はまばらだ。南部町の駅迄、各駅で約2時間かかる。甲府盆地を過ぎると両側に山が迫ってくる。あれから何年になるだろうか。窓の外の流れる風景をぼんやり見ながら、振り返る。歳月の流れのなんと早いことか・・・。

 


緑川は現在都会の屋上に菜園を設置するという仕事をしている。そして屋上菜園には屋上菜園独特の栽培方法があり、その技術開発も進めている。緑川はこの仕事を始める時、一つ考えたことがある。それは屋上菜園で使用する資材はできるだけ自然のものを使うということだった。できれば日本の山を守るために間伐材を使いたい。最初は緑川の会社のある埼玉県の県産材を障害施設で加工してもらっていたが、先方の事情で加工が難しくなり、新たな安定的な加工先を探している時に、山梨県南部町のS商会のI会長に出会った。縁とは不思議なものだ。あれからもう数年になる。
S商会は製材と木工製品加工を専門的に行っている協同組合と近い関係にあり、屋上菜園で使う木枠と木工製品はすべてS商会にお願いしている。メインの木枠の材料は南部町の山林から出るヒノキの間伐材だ。

 

右側の窓の下に富士川の大きな流れが見えてきた。内船駅で電車は停まった。降りた乗客は緑川と若い男性の2人だった。この駅は無人駅だ。
S商会の会長の息子さんで専務のKさんが迎えに来てくれた。まず車で協同組合の作業場に寄った。Sさんが現在試作中の木工製品を見る。間伐材、端材を使ったベンチ、簡易式屋台。作業場の後S商会の事務所に寄って皆さんに挨拶した後、今晩泊る民宿に向かった。山の麓にある。

民宿の客は緑川一人だった。大きな食堂で夕食を食べた後、部屋に戻り、窓を開けた。おびただしい星がきらめいている。緑川は星を見ながら一緒に屋上菜園事業を始めた仲間の島崎健三のことを思い出していた。島崎は5年前、肺がんになりこの世を去った。亡くなる直前病院にお見舞いに行った。島崎は言った。
「大変だと思うが、日本の都市に屋上菜園を一つ一つ増やしていってほしい。オレにとっても夢の扉だ。たのんだぞ。緑川ならできる」さらにこうも言った。
「今日は仕事の帰りだろ。疲れているんだろうから、オレのことはこれでいいので、早く家に帰れ。」島崎はその1週間後息を引き取った。

緑川は風呂を使った後、部屋から林田に電話した。今回は林田にも一緒に来てもらう予定だったが、林田は急に病院で検査を受けることになり、入院となった。心臓に入れたカテーテルの具合がどうも良くないらしい。林田は明日入院するとのことだった。林田には実際に民宿に泊まってもらい、これからの民宿のあり方、経営について相談にのってもらうつもりだった。

思い起せば島崎も林田も緑川も全共闘世代だ。3人が一緒にいると学生時代に戻る。大学では同じ社会思想史のゼミの仲間だった。疎外論とか理念型、エートスなどという哲学的問題で議論に明け暮れた思い出がある。当時は自分がその難しい問題をどこまで理解しているかということを相手に分かってもらうために延々と話したものだ。3人とも社会に出てそれぞれの職業について社会の荒波に揉まれてきた。お互いの意見、考えを柔らかく受けとめることができるようになっているが、それでも議論が始まるといつの間にか熱を帯びていた。
 

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島崎は屋上緑化事業を手広く手掛けていた。これから都市の環境問題が大きなビジネスチャンスになると見ていた。島崎は起業家精神に溢れた、まさに経営者だった。40歳過ぎ迄大手の重工業会社でエンジニアとして仕事をしていたが、脱サラして環境関係の事業を起こした。環境機器と屋上緑化を事業の2本柱にしていた。樹木、芝生、花を中心にした屋上緑化が今後都市部で拡大していくと読んでいたのだ。

緑川は父親の後を継いで土木建築資材を建設会社に販売する会社を、10年間ほど経営していた。いろいろな新規事業を立ち上げたがことごとく失敗。売上が一時は50億円迄いった会社に見切りをつけ自主廃業を決断し、約1年間かけて完了した。一歩間違えると倒産という崖の上の細い道を歩き続けるという極度の緊張を強いられた。自主廃業を完了後、暫くの間虚脱状態に陥っていた。その後声を掛けて頂いて2つの会社の営業顧問的仕事をしていたが、時間もあるので気分転換も兼ねて野菜作りを農家から畑を借りて始めた。もし農作業をしていなかったらウツ病になっていたかもしれない。自分の人生には一体どのような意味があるのか、まさに実存的空虚感の底に落ち込んでいった。
自分で栽培して自分で食べる。販売するために農作業をするわけではないので、無農薬、無化学肥料の有機的栽培に取り組んだ。野菜作りをしているといつの間にか無心になれる。何も考えずに無意識で作業している自分がいた。それだけでも救われた。
 

 

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それから2年後、緑川は久しぶりに島崎と会い、島崎の屋上緑化事業に関わることになった。島崎の会社は屋上用の軽量土壌を開発していた。この土壌の主な用途は芝生と樹木、花用だった。緑川は島崎に勧められて、この軽量土壌を使った野菜栽培に取り組んだ。芝生と違って薄い土で野菜を育てるというのは簡単ではなかった。試行錯誤、失敗の連続だった。当時は屋上で野菜をつくるというのが珍しかったせいか、メディアにも取り上げられたが、小さなブームはアッという間に去っていった。

屋上菜園は事業として取り組むにはいろいろな問題があった。環境対策として屋上に芝生を張ったり、樹木を入れたりするケースは増えていた。一方屋上菜園は手間がかかる。特に都市部の屋上になぜ屋上菜園を設置するのか、その積極的意味が求められるが、当時は説得力のある意味付けがなかなかできなかった。屋上菜園を設置することは設備投資を伴い、また野菜を栽培するのだからそれなりの栽培費もかかる。それだけおカネをかけてどんな見返りが期待できるというのか。企業の本来の事業にとっての経済的貢献が期待できないのであれば、屋上菜園の意味はなくなる。この問題が緑川を苦しめ続けた。

緑川は夜空を見ながら呟いた。「あの時は・・・ずっと屋上菜園事業では食べていけない。しかしなぜか都会の屋上での野菜栽培を自分は諦めることができない。自分をウツ的状態、さらには深い空虚感から救ってくれた野菜達が何かを自分に託しているのかもしれない。自分がこれからの人生を生き続けていくためには野菜達と離れてはいけない。そんな声もどこからか聞こえてきた。これしかないのかもしれない。もし諦めたらこれからの人生、一生後悔するかもしれない。」

幸いある大きな商業ビルの屋上菜園での栽培作業を緑川が参加していたNPOが仕事として受注することができた。この屋上菜園での仕事がもし無かったら、緑川の屋上菜園事業は全くどうなっていたか。・・・途中で緑川が属している団体がNPOから一般社団法人に変わったが、栽培管理契約は継続した。
その商業ビルの屋上菜園の栽培管理を2008年からはじめたので既に10年以上続けてきたことになる。「あれからもう11年か。いろいろあったが、アッという間のような気もする。屋上菜園で忘れがたい人々との出会いもあった。一期一会的出会い、ご縁だったがそれらの人々との出会いも緑川に屋上菜園事業を続けさせる力となった・・・。この仕事は文字通り社会の片隅の仕事だ。顧みてくれる人は限られている。まさに小さな一隅を照らす仕事だ。それでも屋上菜園を愛してくださる人々がいる」
緑川は60歳の時から年金受給者になった。贅沢をしなければやりたい仕事ができる。

 

 

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林田は大学卒業後経営コンサルティングの会社に入った。会社では問題解決手法と経営計画づくりの専門家として活躍してきた。60歳の定年退職後は自営で10年以上コンサルティングの仕事を続けてきた。現在は小さな会社の事業計画案作成を手伝い、伴走者として相談に乗っている。ただ林田は心臓に持病を抱えていて無理はできない身体だ。

 

翌朝、緑川は午前7時頃に起きて民宿の近辺に散歩に出かけた。住宅の間の坂道を下りていくと川の水音が聞こえてきた。川の上流の方に歩いていくと大きな滝が見える。人工的に作られた滝だ。暫く滝を見た後、踝を返して川の下流に沿ったゆるい坂道を歩いていった。農家の婦人が畑でしゃがんで青紫蘇を収穫している。ひとしきり歩いた後、民宿に戻った。食事迄の間、読み続けている本を30分ほど読んでから食堂に降りた。朝食をとるのは緑川だけだ。

8時半にS商会のSさんが迎えに来てくれた。S商会の皆さんに会うのは半年ぶりになる。何か親戚の人々と会っているような気さえする。
S商会は家族経営の会社だ。早速専務と打ち合わせに入る。打ち合わせは昼前迄続いた。S商会も会長から長男Kさんへ経営のバトンタッチを進めている。専務になったKさんが頼もしくなってきている。彼の、さらにはS商会の皆さんの期待に応えるためにも緑川は自分にカツを入れた。「頑張らなくては・・・自分に残された時間も少なくなってきている。」

内船駅までKさんに送って頂き、甲府行きの各駅の電車に乗った。遥かに聳える山々を見ながら緑川はこれからのことに想いを馳せていた。

自分は11年間、屋上菜園の仕事をやってきた。続けてこれたのは何よりも妻の理解と協力だった。儲かりもしない割に手間がかり苦労の多い仕事、と思ったこともあったことだろう。緑川はのめり込むタイプだ。「やめて」といっても聞かないだろうと諦めていた部分もあったのではないか。人にはそれぞれ持ち場というものがある。緑川は自分の居場所、さらには持ち場を探し求めていたが、なかなか見つからなかった。
ある時、一つの詩に出会った。

 

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あなたの持ち場は小さいか
心してそれを守りなさい

あなたの持ち場は大きいか
心してそれを守りなさい

 

あなたの持ち場が何であれ
それはあなただけのものではない
あなたをそこに置かれたかたのものである
 

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緑川は「今、ここ」、屋上菜園こそ自分の持ち場であると思い定めた。野菜の神様が自分を屋上菜園に置いてくださったのだ。その方は「私はあなたと共にいる」と言ってくださっている。そんな風に信じることができた。

11年間やってきてやっと屋上菜園への根本的問い、「屋上菜園は企業の本来の事業にとってどんな経済的貢献が期待できるのか」が見え始めてきている。緑川は業務用として、商業ビル、マンション、事務所ビル、老人ホームと4つの分野に分類した。分野ごとに貢献内容が違う。それぞれの分野ごとに実績、事例が増えてきているので、いずれビジネスモデル化しようと準備に入っている。

11年間、屋上菜園に仕事として取り組んできて緑川の中で大きく変化したことがある。
ちょっと大げさに言えばコペルニクス的転回だ。齢をとり、残された人生が少なくなってきた高齢者特有の思いかもしれない。


一つ目はこれからの人生で、人生から何を期待できるか、という思いが消えて、私と私の大切な人々の人生に対して自分はこれから何ができるか。

二つ目は今迄明日のために、未来のために今日自分は何をすべきか、何をしなければならないか。さらに言えば現在を未来のための踏み台、通過点と考えていたが、現在は「今、ここを生きる」。未来は「今、ここを生きる」の積み重ねの結果としてある。「今、ここを生きる」が一番大事。

三つ目は本から現実へ。本を読むことは大切だが、本の世界にとどまるのではなく、現実に向き合い、現実の中で生きること。緑川はある日、電車の中から郊外に広がる町の風景を見ていた時、瞬間的に自分の生きてきた文字の世界の殻が破れて現実の世界に置かれたように感じた。生きているという実感がした。そして現実世界が愛おしく思えた。


野菜栽培が緑川に生きることのリアリティを回復させてくれた。そして居場所、持ち場を与えてくれた。これからの残された人生、野菜の神と共に歩いていくことだろう。
そして最後に願うことは緑川のバトンを受け取って次の走路を走ってくれるランナーが出てきてくれることだ。
一隅を照らし続け、幸せな社会を拓くために。

 

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右手方向に雨ヶ岳の高い頂が見える。これから甲府盆地に入っていく。雲間から太陽の
光が地上に降り注いいでいる。

「生きること、生き抜くこと、それがどんなに平凡な人生に見えても。野菜の生き方に見習いながら生きること」。緑川は車窓の外の流れる光景を見ながら、そう自分に言い聞かせていた。いつの間か微笑みが浮かんでいた。
 

​ 

(完)
 

 

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