屋上菜園物語
〜第1話〜
<故郷の母>
菜穂は芝生と花壇、そして菜園のある屋上に久しぶりに上がってきた。
今日はなぜか休憩時間を緑と空のある屋上で過ごしたいと思った。
大きな青空だ。芝生を踏みながら、菜園のところにきた。
夏野菜の収穫も終わり、菜園に残っている野菜は少なかった。菜園の一角に刈り取ったばかりの稲が干してあった。支柱を合掌式に組み合わせ、その間を支柱が横に渡してある。
「そうなんだ、今年屋上で稲を育てていたんだ、知らなかった」。
稲束の上には赤い鳥除けネットが掛けられていた。「そうよ、スズメが群でくるから。田舎と同じだ」
菜穂はそうつぶやいた後、故郷の風景を思い出した。そして母の顔を。
菜穂の両親は代々続く農家だった。米作を中心にしながらもその時、その時でいろいろな野菜をつくっていた。昔はタバコも栽培していた。儲かるからということでシイタケ栽培に力を入れたこともあった。
父は耕運機に乗って作業していた時、バランスを崩し、耕運機の下敷きになって命を落としてしまった。夕方になっても帰ってこないので、畑に行ってみたら息絶えている父がいた。高校1年生の時だった。
菜穂には兄弟がいなかった。一人っ子だった。
母は田畑を守るために、父が亡くなった後、遮二無二働いた。
家事は菜穂の担当となったが、忙しい時には田んぼに、畑にと駆り出された。
「身を粉にして働かなくては食べていけない」それが母の口癖だった。母は菜穂が地元の男性と結婚することを望んでいた。しかし菜穂は田舎で一生を過ごすとは考えていなかった。母と一緒に汗を流して働いたが家の暮らしは一向に楽にならず、「農業には将来性がない」と心の底からそう思った。
「私は東京に出て、東京で働き、東京に住みたい」。高校3年生になった時、将来の進路を決めなければならない。菜穂の夢は服飾デザイナーだった。母に負担はかけられない、との思いから昼、夜飲食店でアルバイトをしながら生活費と学費を稼いで、ある程度貯まったら専門学校に行く、と母親に話した。
母は「おまえがそう決めているなら、反対はしないけど、東京の生活は大変だよ。身体を壊さないか心配だ」
高校を卒業後、母の兄にあたる伯父さんに保証人になってもらってアパートを借りた。また飲食店に勤める際の保証人にもなってもらった。母が頼んでくれたのだ。
東京のアパートは家賃をできるだけ節約したかったので、板橋区を通る、私鉄の電車の線路近くの部屋を借りた。北西向きで殆ど陽があたらない部屋だった。早朝に家を出て、夜遅く帰ってくる。終電の通る音を聞きながら眠った。土曜日、日曜日も働いた。
収入が多い月は母に仕送りをした。母からは毎月手紙が来た。
東京に来てから2年経った秋、菜穂は久振りで田舎に帰った。
田畑の風景に耕作放棄地が目立った。
「みんな歳をとって、はあ、農作業ができなくなってきたよ」
「かあちゃんはまだ若い方だから頑張れるけど、正直しんどくなってきただよ」
「手伝ってくれる人もいるかもしれないが、多分みんな年寄りだろう。かあちゃんだけはいつまでも元気でいてほしい」菜穂は心の中で呟いた。
東京に出てきてから4年が経った。菜穂は服飾デザインの道を諦めてはいなかったが、
専門学校に行くだけの資金を貯めることはできなかった。今はこの商業ビルの6階にあるオーガニックの雑貨店の店員として働いている。毎月の母への仕送りも続けている。
今日屋上に来て、干してある稲束を見て、思わず母の顔を思いだした。それだけでなく
稲刈りの後、母と一緒に稲を干したことも思い出した。
屋上菜園で野菜の世話をしている人がいる。私が暫く干してある稲束を見ていたので、そっと声を掛けてくれた。
「どうしました?」
私は思わず「田舎の母を思い出していたんです」
「ご実家は田舎なんですね」「そうです。この時期はこんな田園風景が広がっています」
「そうなんですね。・・・東京の真ん中、ビルの屋上でもお米ができるんですよ」
菜穂はその人と別れ際に言った。「今晩母に電話します」。しかし菜穂はなぜか母に電話ができなかった。いつも忙しさにかまけて母に電話もかけず、手紙もかかない自分を責める気持ちがあったからかもしれない。「あの子は用事がある時だけしか連絡していこない」と思われているのではないか。
翌日また屋上菜園に行った。稲束は昨日と同じだ。少し風に揺れている。今日は屋上菜園を世話する人もいない。自分一人だ。稲束をじっと見つめていると声が聞こえてきた。
「菜穂さん、今日はお母さんに電話をしてくださいね。お母さんは菜穂さんの声を聞きたいんです。お母さんは田畑の仕事の後、毎晩たった独りで夕食をとっています。淋しさに耐えながら・・・、ある時は涙をこぼしながら、「菜穂・・・、お父ちゃん・・・」と、すぐ目の前にいるかのようにそっと声をかけて食事をしていますよ。
お母さんは言っていました。「菜穂が本当に幸せになる迄、お父ちゃん、私はそっちにいけないよ~。」
菜穂は思わず稲束に尋ねた。「あなたにどうして母のことが分かるんですか?私の実家は
栃木です。こことは遠く離れているのに」
稲束は答えた。栃木のあなたのお母さんのところから昨晩、ここまで風が吹いてきて、そう伝えてくれたのです。」
菜穂は思わずそこにしゃがみこんで泣いた。
その晩、菜穂は母に電話をした。
「お母さん、菜穂。ごめんね、ずっと連絡していなくて」
「菜穂、元気にしているかい?」
「私は元気よ。お母さんは元気?」
「大丈夫だよ、それはそうと東京の生活はどうだい。仕事はうまくいってるかい。」
「生活も、仕事も順調よ」
「そうかい。そうかい。それは良かった、私は周りの皆に助けられて元気にしているからね。心配しなくていいよ。今日はもう遅いから早く寝なさい、明日も仕事があるんだろ」
トシは電話を置いた後、深いため息をついた。
最近受けた市の特定健康診断で「乳がんの疑い」を指摘された。精密検査を受けるように医師から勧められた。
菜穂に余計な心配をかけてはいけない、そう思って電話では話さなかった。
精密検査の結果が出てから伝えようと決めていた。
ある日、菜穂から手紙が来た。
"今付き合っている人がいて結婚を考えている。ただ問題なのは相手の男性がサラリーマン生活を辞めて田舎にIターンしたいと言っている。私は田舎では食べていけないと反対している"といった内容だった。
2週間後にまた手紙が来た。
"相手の男性は田舎でカフェ兼民泊をやりたい。カフェで出す料理は自分で栽培した野菜を使う。
カフェは菜穂のお母さんが住んでいる栃木県のS市に開きたい、ということなので私も賛成した。
相手の男性は、東京は病んでいる、そして砂漠のようだとも言っている"という内容だった。
トシは仏壇の前に座り、夫に話しかけた。
「父ちゃん、ありがとう。私は孫の顔を見てからそっちに行くからね。」
END