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屋上菜園物語

 

〜第2話〜 

<ほんとうの人間になる>

西堀啓介は72歳を過ぎたころから、今迄と違う自分を感じるようになっていた。

電車に乗り、流れていく外の風景を見ながら、何か懐かしさと淋しさを感じるのだ。

さらに言えばこの世にいる自分とあの世に行った自分、その二人が同じ風景を同時に見ている、という感じだろうか。そして淋しさがこみあげてくる。こんな経験は初めてだ。

ひょっとするとお迎えが近いのだろうかとさえ思う。


啓介は思わずつぶやいた。

「俺の人生って一体何だったんだろう」

啓介は先日、親友の森山に心の中の悩みを聞いてもらった。

 


啓介:「最近淋しいんだ。何か具体的理由があるわけではないんだけど、とにかく淋しい」
 

森山:「いつも元気そうにしているから、そんなふうに見えなかったけど、どうしたんだろうね」
 

啓介:「高齢者のウツ病に俺もかかり始めているのかもしれない、と思ったりしている」
 

森山:「最近、倉田百三の『出家とその弟子』を読んでいたら、こんな箇所があった。

親鸞が弟子の唯円に、『私も淋しいのだよ。私は一生淋しいのだろうと思っている。

もっとも今の私の淋しさはお前の淋しさとは違うがね』と答えている」
 

啓介:「今迄の人生ではあれやこれやとやるべきことが山ほどあって、淋しいと思う時は殆ど無かった。

自分と向き合う時間も敢えて持たなかったし・・・」
 

森山:「その意味では今がその時なのかもしれないね」
 

啓介:「来るべき時が来た、ということなのかな」

帰宅後、啓介はお茶を飲んで一服した後、今住んでいるマンションの屋上に上がった。

夕暮れが始まっていた。遠くの空が夕焼けでオレンジ色に染まっている。階段を上がったすぐのところに菜園がある。啓介は気分転換を兼ねて時々屋上に上がる。菜園には季節毎にいろいろな野菜が育っている。

オーナーの天海さんが、屋上菜園で野菜の有機栽培を専門にやっているガーデンマスターと一緒に野菜の世話をしている。ミニトマト、ナス、キュウリ、ピーマン、ジャガイモ、それに葉物野菜のフリルレタス、ハーブではルッコラ、ミント、カモミール、ローズマリー。もう一つの区画は芝生で緑化されていて、ブドウ、オリーブなどの果樹も植わっている。

啓介はウコンの前で立ち止まった。茎から大きな葉が何枚も出て、花が咲いている。蘭のような赤みがかった白い花。こんなに可憐な花が咲くとは・・・啓介はしばらく見とれていた。

それにしてもこんな15cmの薄い土で根物野菜がよくできるもんだ。

ウコンの花に触ってみた。

「野菜の花ってきれいなんだな」その時、夕べの風が吹いてきてウコンの葉を揺らした。啓介はウコンに思わず話しかけた。

 

「俺に力をくれないか。自分の人生は、失敗と挫折の連続だったように感じている。最近つくづくそう思う。世間は俺には微笑んでくれなかった。

俺みたいな人間はこれから生きていてもたいしたことはないように思うんだ」


また風が吹いてきた。その風の中で何か声が聞こえた。
 

「私は秋ウコンです。私はウコンとして生まれ、ウコンとして生長し、そして根茎をつけて一生を全うします。その間、遅霜にやられたり、害虫に葉を食べられたりしますが、それは生きていくためには仕方がないことだと思っています。私の願いは次の世代のために元気な、ほんとうの根茎を残すことです。西堀さんの人生もご自分だけの人生ではなく、次の世代の人達のための人生なのではありませんか」

 


啓介は慌ててあたりを見渡したが、誰もいない。確かにウコンが話しているのだ。啓介は目の前のウコンをもう一度見た。ウコンは言葉をつないだ。

 


「元気を出してくださいな。私は屋上で朝日を浴び、夜は星空を見ています。ただこんな都会では見える星は限られていますが、夜明け前の星が一番きれいに見えますよ」夕焼けが最後の光を放った後、急に暗くなってきた。


マンションの部屋に戻ったら、妻の良枝が帰宅していた。夕食の準備で忙しい。啓介は良枝にウコンの話をしようかと喉まで出かかったが、飲み込んだ。「少し疲れているんじゃないの。だいじょうぶ?」と言われるのが関の山と思ったからだ。


あくる日、啓介は森山に電話をした。次の日、早速行きつけのカフェで会った。
 

啓介:「実は昨日俺の住んでいるマンションの屋上菜園でウコンと話したんだ」
 

森山:「農園を経営している人で野菜と話ができる人がいる、と聞いたことがあるけど、西堀くんもいよいよその域に達した、ということかな。

・・・それでどんな話だった?」
 

啓介:「ウコンが言うんだ。『私の願いは次の世代のために元気な、ほんとうの根茎を残すことです』って。」


森山:「ほんとうの根茎か。俺も最近思うんだ。俺たちが生きているのはほんとうの人間になることではないか、と。ほんとうの人間になるためには成功よりも失敗、挫折、試練を経験することが大事なんじゃないかな。」


啓介:「ほんとうの人間?・・・そんなこと、今迄考えたこともなかった。なんだか意味が深そうだな」


森山:「ある人がこう言ったそうだ。『自分は成功のみを追求したからこそ、人生に失敗したのだ。たしかに仕事においては成功したかもしれない。しかし自分はほんとうの人間になることにおいて失敗した』、と」


啓介:「俺たちが目指すべきはほんとうの人間、ということなんだね」


森山:「能力、立場、環境に関係なく目指すことができる。そのためになくてはならないのは・・・なんだろう」
 

啓介「俺にもほんとうの人間を目指すことができるのかな。あのウコンがほんとうの根茎を残す、と言ったように」啓介は森山と別れてマンションに戻った。すぐに屋上に行き、ウコンの前に立った。
 

「ありがとう。お蔭で気持ちが吹っ切れた、というより整理できた。これからの残りの人生、ほんとうの人間を目指して、生きていくよ。そう思ったら全てが愛おしくなってきたような気がする」。


ウコンは微笑みながら言った。

「西堀さんだったらできます。人には愛という神様が与えてくださった尊い宝があります。

是非愛を見つけてください。そうすれば西堀さんの人生の失敗、挫折に新しい光が注がれるはずです。

もう一度新しい気持ちで残りの人生を生きてくださいな。そのためには健康です。

私には肝臓の機能を高める効果があります。

そのままでは苦いのでハチミツ漬けにして食べてくださいね。」

END

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