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屋上菜園物語

 

〜第3話〜

<我が家>

真澄は買物のついでにふと屋上に上がってみようという気になった。

館内の案内板に屋上の利用案内のポスターが貼ってあったからだ。急いで家に帰ることもなかった。

夫が朝出社してから夜迄、真澄は一人だった。「今日は荷物も軽いし」エレベータで10階に上がる。
エレベータホールのドアを開けて階段を降りると屋上は緑一色だった。

 

「ワーッ」
真澄は胸の内で小さく叫んだ。

「こんなふうになっているんだ。へ~、知らなかった。」
 

屋上の左側には菜園があり、その奥にブドウの棚。

右側に芝生が広がっていて、島のような感じで花壇がポツン、ポツンとある。


「ビルの上がこんなふうになっているんだ。」

巡回しているガードマンが会釈をして去っていく。
 

5月の空が大きく、高く頭上に広がっていた。思わず深呼吸をした。すぐ近くに東京スカイツリーが見える。

屋上の鮮やかな緑が真澄の落ち込んでいる気持にも映り、少し元気が出てきた。
屋上には何人かの買物客が上がってきている。子供を乗せたバギーを前に置いて、ベンチで休息がてら会話を楽しんでいる母親たち。真澄は見るともなしに親子を見ていた。

私にもあのような光景がやってくるかしら」
若いカップルが芝生の上を歩きながら囁き合っている。二人だけの世界。

 

「私にもあんな時があったわ」
真澄は暫く自分が立ち止まっていたことに気がつき、歩き始めた。まず菜園の区画に向かった。
 

「どんなお野菜を栽培しているのかしら」
区画毎に栽培している野菜のプレートが立っている。
四季成りイチゴ、ミニトマト、ナス、シシトウ、フルーツピーマン、キューリ、スイカ、エダマメ、サツマイモ。
屋上でもこんなにいろいろできるんだ。真澄は区画毎に野菜を見て回った。

野菜の苗たちがそれぞれ元気に生長している。思わず声をかけた。
 

元気に育つのよ」
屋上菜園の案内板を読む。

 

この屋上では15cmの深さの土で葉物、実物、根物野菜を有機栽培しています。

一番美味しい旬の時に完熟の野菜を収穫します”
 

「そんな薄い土で野菜が育つのかしら」

しゃがんで、ミニトマトの株を見ると小さな黄色い花がいくつもついている。

葉物野菜はともかく、実もの野菜、根もの野菜はもっと深い土ではないと良く育たないんじゃないかしら」
真澄は野菜栽培のことは良く知らないが、最近テレビで農業番組が増えてきているので、何気なく見ている。
真澄は福井の出身で、今の夫とは大阪で知り合い、夫の転勤で東京に来た。

東京には友人が一人もいない。いつか大阪に帰ると思うと、友人を東京でつくることにあまり積極的になれない。

夫からは友達をつくれ、と言われるけど。私は友達との別れがとても辛いタイプなの。
真澄はミニトマトの花にそっと声をかけた。


「私はひとりぽっちなのよ。トマトさんはお友達が沢山いていいわね」
 

トマトの区画にはトマトの株が10本以上植えられている。
ミツバチが飛んできて花から花へと動きまわっている。

 

「こんな屋上にもミツバチが来るんだわ。どこから来るのかしら」
ミツバチが去った後、微風に揺れながらミニトマトが真澄に話しかけた。
 

「私達は花を咲かせ、黄色い花を赤い実に変えていきます。最後はあなたの背丈ほどにも
なりますよ。最初、この屋上菜園に来た時には思わず泣いてしまいました。こんな薄い土
でしかも乾燥しやすいところで、生きるなんてとてもできない、と思ったからです。でも
私達を世話してくださる方達のお陰で今では『大丈夫』という気持で毎日を生きています」

 

真澄は思わず答えるともなしに言った。

「トマトさんはミツバチさん、それに世話してくださる方達がいて幸せね」


トマトが言った。

「真澄さんにもきっとそのような方達がいるはずですよ。」


「そうね、そうだといいんだけど。・・・私、結婚したら早くお母さんになりたいと思ったの。

でもなかなか子供に恵まれなくて、もう3年たったわ。年齢のこともあるし、焦ってもいるの」
 

トマトは言った。

「今はまだ5月で実は一番下の枝にしかついていませんが、2番目、3番目・・・6番目
と枝に花が次々と付いて実が鈴なりのようにたくさんつくんですよ。楽しみにしていてく
ださい」


トマトの花をじっと見詰ていた真澄はふと我に返り、ゆっくりと立ち上がった。
ブドウの棚に近づいて行った。太い枝が2本伸び、そこから等間隔で細い枝が伸び、葉が
繁っている。「今年の9月には枝たわわのブドウが稔ります」とブドウの区画の案内板に
書いてある。「ブドウもできるんだ」

ブドウの向こう、フェンス越しに隅田川が銀色に光りながら流れているのが見える。
真澄はフェンスに近づき、眼下に拡がる町を見た。その中に自分の家が見えたような気が
した。そこだけかすかに光っているように見える。


真澄はわが家を両手の手のひらで包むようにして言った。「私の家・・・」
フェンスを離れ、エレベータ乗り場に向かう時、屋上菜園の傍を通った。真澄は思わず
野菜たちに声をかけた。


「今日はありがとう。お蔭で元気が出たわ」
 

トマトが言った。

「真澄さん、夫婦は向き合うことが大切です。相手を深く知ることです。
ある時は勇気を持って相手の真実に向き合いましょう。そして何気ない時も含めて夫婦一
緒の時間をできるだけ取ってくださいね。真澄さんには分からないかもしれませんが、私
たちもそのようにして生きています。・・・そして気が向いたらこの屋上菜園に時々でい
いですから、足を運んでください。私たちも真澄さんと笑顔の時を一緒に持ちたいと願っ
ているんですよ」

END

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