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第二の故郷ものがたり

 

〜第3回〜 

「初めてのワーケーション」

3話.JPG

①ワーケーションの準備

野崎俊介は山梨県のT町に向かっていた。新宿から中央線の特急に乗り、甲府で身延線に乗り換え、Y駅で降りる。自宅からの所要時間は3時間半。両側から南アルプスの山々が迫ってくる。
もうすぐ駅に着くというアナウンスがあった。
滞在場所はT町のワ―ケーション施設だ。宿泊は提携している民宿だ。今回は会社が社員を対象に実施しているワ―ケーション制度を利用しての旅行だ。

滞在期間は1週間。一年に4回利用することができ、費用は会社の福利厚生費から全額出る。

ワ―ケーション施設は関東近県にある提携施設の中から自由に選ぶことができる。

野崎が勤めている会社は神田にある広告宣伝媒体を扱っている会社だ。

給料は出来高払いも含めると良い方だと思うが、会社の福利厚生活動といったものは全くと言っていいほど無かった。

それは社員が自分で好きなようにすればいい、という考えがトップにあったようだ。ところが最近、会社の同僚が他の会社に転職するという事態が相次いだ。結局3人が辞めていった。
3人とも優秀な社員だった。慌てたトップは経営会議を開いて若手・中堅社員の引き留め策を講じた。

その中の一つがワ―ケーション制度だった。ワ―ケーションでは自分の勤務時間は本人の判断に任される。

今回会社から求められていることは1本の企画書をまとめることだけだ。野崎が今回上司と相談して決めたテーマは「地域資源の活用・スーパーフード農園の支援」だった。
今迄T町のスーパーフード農園の経営者伊東さんとメールで打ち合わせを重ねてきた。今回の出張は企画内容の最終的な詰めと実行案の作成にあった。野崎は今回のワ―ケーションでは以下のような計画を立てた。
まず企画書をベースに、着いた日の翌日、月曜日から水曜日まで伊東さんと一日、徹底的に打ち合わせをする。

午前8時から午後3時迄ワ―ケーション用の事務所になっているログハウスでミーティングを行う。

昼食は地元の食堂の出前。後の2日間は企画書の最終的完成に専念する。金曜日にもう一度伊東さんに会って企画書の完成案を説明し、アドバイスを頂く。
5日間の昼食はログハウスのカフェで出前ランチ、午後3時迄仕事を終えて、それ以降は最初の日は別としてウエルネスタイム。ウエルネスのプログラムとその場所が用意されている。ワ―ケーションの滞在者は無料で、自由に使える。
ログハウス周辺の森の中の道を散歩し、木々の間にヒノキチップがカーペットのように敷かれた場所があるとのこと。

そこで寝ころび自然の中にいることを実感する。そして樹に触れ対話をする。

大空を流れる雲に向かって今自分が思っていることを叫ぶ。夜は民宿で夕食の後囲炉裏端で地元の若い人たちと懇談の時を持つ。その後で自分の部屋に戻り、窓を開けて煌めく星座を見た後瞑想。大宇宙の中で生きている自分を確かめる。最後は民宿の温泉の湯で身体もこころを癒す。
T町ではワ―ケーションを楽しんでいる若い男性と女性のそれぞれの動画を製作してネットにアップしている。20分間程度の動画だが、十分雰囲気が伝わってくる。おおよそ以上のような滞在計画を立てた。計画しているだけワクワクしてきた。もう一つアグリヒーリングのプログラムと場所も用意されている。地元の畑と2田んぼでの農作業だ。今回は見学だけにして、実際に作業するのは次回にした。アグリヒーリングの動画も作成されている。皆楽しそうだ。
                 *
Y駅で電車を降りたら、伊東さんがプラットフォームで、待っていた。Y駅は無人駅だ。
伊東「遠いところまでわざわざ来てくださりありがとうございます。これから1週間よろしくお願いします。」
野崎「こちらこそよろしくお願いします。何か空気が違いますね。元気になれそうです」
伊東は野崎を予約している民宿に車で連れていってくれた。
伊東「それでは明日8時にロッジに伺います」
野崎「これから1週間お世話になります」
民宿は山の傾斜面に建っている。
夕食迄1時間ほどあったので、民宿のご主人の大森さんに断って散歩に出かけた。
富士川に流れ込む川の傍を歩く。夕方の霧が山から降りてきている。未だ初秋の時期だがヒンヤリとしている。俊介は思わず山の頂の方に目を向けたが、ボンヤリしていてはっきりとは見えない。道が川の近くになると水音が強く聞こえてきた。かなり急な流れだ。都会では川の水音を聞く機会が少ない、いやほとんどないかもしれない。赤とんぼが俊介の前を飛び去り、薄の方に向かっていった。
俊介はその時、自分が東京の喧騒を離れて人影の殆どない自然の中にいることを実感した。歩いていくと向こうの方で煙が流れているのが見える。近づいて見ると人がいる。中年の男性と女性だ。何か作業をしている。
野崎「何をしているんですか」
男性「竹を燃やして竹炭と竹酢液を作っているんです。最近このあたりの山も竹が多くなってきて、困っています。竹が増えると木が育ちにくくなって山が荒れていきます。竹炭と竹酢液を作って販売すれば竹の伐採費用ぐらいは出る
と考えてやっているんです」
その時野崎はワ―ケーションの時間の後、もし手伝えたら竹を燃やす作業を手伝えるかもしれないと思った。その後川に沿って道を歩いていくと富士川に出た。身延線の電車からも見えたが大きな川だ。立ち止まってしばらく富士川の流れを見ていた。富士川は富士山の西側を回りこむようにして流れ、駿河湾に注いでいる。野崎は改めて上流に視線を送り、そして下流へと視線を廻した。
「この地域の人々は昔から山の中で富士川と生活を共にしているんだ」思わず呟いた。
ここまで歩いてくるのに20分かかった。帰りは登り道なので、時間が余分にかかるはずだ。引き返して民宿に戻ることにした。民宿の夕食は地元さんの食材を使ったものだった。大きな食堂での夕食。メニューは豚肉の生姜焼き、ナスとオクラの天ぷら、玉ねぎとジャガイモの味噌汁、そして野菜サラダ。食後はコーヒーと民宿の女将さんが作ったショートケーキを囲炉裏の方に移動して頂く。今日ここの民宿に泊まるのは一組の高齢者夫婦とどこかの建設会社の社員一人。どこかに現場があるようだ。囲炉裏には民宿のご主人、女将さんに加えて地元の若い男性が加わっていた。それぞれ簡単に自己紹介。高齢者ご夫婦はこの民宿によく泊まりに来ているとのこと。
「ここは私の故郷、北海道の北見に風景がよく似ているので。北見はやはり遠いのでなかなかいけませんから近場ということでここには年4回ぐらい、毎年来ています」高齢者のご主人がそう話してくれた。建設会社の社員はこの地域で始まったバイオマス発電のプロジェクトの準備で来ているとのことだった。

 

野崎は東京の広告会社の社員で今回はワ―ケーションの関係で1週間ほど滞在すると自己紹介した。高齢者ご夫婦のご主人から「ワ―ケーションって何ですか」と聞かれたので、野崎は「仕事をして休暇もとるという新しい勤務スタイルです」と説明した。地元の若い男性が自己紹介をした。「私はここの生まれですが、高校を出た後、地元の山梨学院大学に進み、卒業後東京のホテルに就職しました。5年前のことです。そして昨年新型コロナウイルス問題でホテルがリストラした際、私もその中に入っていました。リストラされてから東京でいろいろ仕事を探しましたが、見つかりませんでした。故郷でワ―ケーションのプロジェクトが始まり、リーダーの近藤さんから声が掛かったので戻って来て、今はワ―ケーションのプロジェクトに携わっています。これから東京からワ―ケーションで私たちの町に来られるビジネスパースンの方が増えるでしょうから、その受け入れ体制づくりを担当しています。まだまだ不十分だと思いますので、ワ―ケーションで滞在される皆さんの生の声を伺いながら、皆さんが気持ち良く仕事をして、自然の中で気分転換できるよう受け入れ体制の充実を目指しているところです。昨年秋、近藤さんのサポートでフィンランドに行き、フィンランドの人々が森の生活をどのように楽しんでいるか、研修というと大げさですが、見てきました。とても参考になりました」囲炉裏端の会話は主にこの地域の最近の状況についてだった。この町も高齢化が進み、限界集落も生まれ、人口減少が続いている。人口は1万人を切った。
民宿のご主人が皆を励ますようにこう言った。「これから段々良くなっていくさ。野崎さんのようにワ―ケーションということで若い人がわが町に来てくれた。それもわが町の伊東さんとの共同プロジェクトを実現するために。本当にありがとうございます。」建設会社の社員も「これからバイオマス発電事業も始まるし、活気が出てきますよ」
民宿のご主人が音頭をとり、この町の地場ワイナリーのワインで乾杯した。風呂に入る順番を決めた。野崎は最初に入る高齢者夫婦の後になった。ここの民宿は温泉の湯を引いてきている。
野崎は一旦自分の部屋に戻り、敷いてある布団に横になった。これから1週間、有意義に過ごそう、と改めて自分に言い聞かせた。部屋から東京の自宅に電話した。妻の真理はすぐ出てきた。
俊介「今、民宿の部屋から電話をしている。落ち着いた古民家風の民宿だよ。」
真理「晩御飯は食べたんでしょ」
俊介「食べたよ。豚肉の生姜焼き、ナスとオクラの天ぷら、それに味噌汁。」
真理「民宿はどんなところにあるの?」
俊介「ちょっと山奥っぽいところだね」
真理「そう。それじゃ、これから1週間元気でね」
俊介「うん、おやすみ」
部屋の窓を開けてみると満天の星だ。まさに開けてびっくり。こんなに沢山の
星を見たことは今迄の人生でなかった。明日からのワ―ケーションの予定を、
シートを拡げ確認した。殆どが図式化されたシートだった。
高齢者のご夫婦から声がかかった。「お風呂、お先に使わせて頂きました。」
俊介は替えの下着を持って風呂場に向かった。風呂場は6畳ほどの広さだった。
単純硫黄温泉で加熱しているとの説明が掲示板に書かれていた。浴槽からは湯気が上がっている。身体を洗って、風呂に入った。そんなに熱くはないが、身体の芯から暖まる感じだ。俊介は長湯のタイプではないが、今晩は少しゆっくり風呂に入っていたいと思った。湯に浸かりながら今日会った人達の顔を思い浮かべていた。伊東さん、竹焼きをしていた2人、ワ―ケーションを地元で担当している若い人高梨さん、高齢者夫婦、建設会社の社員、それにこの民宿の
ご主人大森さんと奥さん。・・・どこからか虫の鳴き声が聞こえてくる。
風呂から上がった後毎日の日課にしている日記を書き、今日の一日を終えた。
時計は午後9時半。かなり早いが布団に横になっているうちに眠りに落ちた。 

②に続く

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