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時代小説「欅風」(26)大阪城修復普請 氏安陣頭指揮

 氏安は日記をつけ続けていた。それは自分との約束だった。最初は弱音を吐く自分をもう一人の自分が叱咤激励するような内容だったが、最近は自分と天との会話が多くなってきた。そして法全和尚から差し入れられた三国志演義を、特に諸葛孔明を中心に読んでいる。

 なぜ法全和尚が自分にこの本を送ってくれたのか、氏安は考え続けていた。そして次のような考えに辿り着いた。

 小国が生きるためには、生き延びるための大計が必要であること、そして常に全局を見ること―このことだった。

 それでは狭野藩にとっての大計とは何か、どこを見たら全局を見ることになるのか。それは氏安が考えなければならないことであった。

 また日々の戦いのために氏安は小田原北条家の家訓「早雲寺殿二十一か条」を毎日一条づつ読んでいた。

 第一条にはこうある。「仏神を信じ申すべき事」

 第五条は「拝みをする事の行ひ也。只心を直にやはらかに持、正直憲法にして上たるを敬ひ、下たるを憐れみ、あるをあるとし、なきをなきとし、ありのままなる心持、仏意、冥慮にもかなふと見えたり」

 この二条を特に肝に銘じていた。藩政改革全五条を定めた時に氏安は「早雲寺殿二十一か条」を繰り返し読んだ。


 叡基が大川の堰堤普請を終わり、幕府普請方の検分も無事終わった報告をするために江戸から戻った。翌日叡基は出仕した。

 氏安の横には飯野家老が控えていた。氏安が労うように声をかけた。

「この度の大川の普請、立派にやり遂げ、氏安こころから感謝しています。さすが叡基殿と改めて感服しております。幕府普請方榊原弾正殿も狭野藩の普請方責任者は見事な仕事をしていると、狭山池に来られた時言われていました」

 叡基は静かに応じた。「過分のお褒めを頂き、身に余りまする」

 叡基の様子を見て氏安は心配気に言葉を繋いだ。「さぞかし心身共に疲れているであろう。

 暫くゆるりと休んではどうですか。そして何か礼をと考えていますが、何が良いでしょうか」

 叡基は胸の底の思いを汲みだすかのように言った。

「ありがたいお言葉です。私は自分の務めをただただ果たしただけです。礼を頂く立場ではありませんが、もし思し召しをいただけるのでしたら、小さな寺の住職にしていただけないでしょうか」

「捨聖ではなく、ここ狭野藩に腰を落ち着けてくれるというのですか。それは私にとってもこの上なく嬉しいことです。早速厳光和尚とも相談しましょう。」氏安はそう答えた後、

 尋ねた。「ところで何かありましたか」

 叡基は悲しげに答えた。「普請の際、私の不注意で一人の男の子供を死なせてしまいました。本当に可哀想なことをしてしまいました。元吉といいました。利発で勤勉な子でした。私の手元に置いて、一緒にいた女の子も一緒に父親代わりに育てようと思っていた矢先だったのです」 

「何かあると感じていました。それは辛く、悲しいことですね」氏安は叡基と二人の子供たちの間で特別な気持ちが生まれていたことを感じ取った。

 その場の雰囲気を変えるように、飯野家老が口を開いた。

「今晩は大川普請が約定通り終わったことを祝ってささやかでありますが、祝宴を準備しています。切手で苦労した天岡文七郎も加わりますぞ」

「天岡殿には本当に苦労をお掛けした。お陰で普請に伴う費えはすべて賄うことができました」天岡殿に礼を申し上げたいと叡基は腰を浮かした。

 そこに襖の向こうで控えていた天岡文七郎が襖を開けて膝行で入ってきた。

 叡基は飛び着かんばかりに天岡の前に行き、手を取って頭を深深と下げた。

「叡基殿、私も貴殿の仕事振りに大いに勇気づけられました。御礼を言うのは私の方です」

 その晩の祝宴は夜遅くまで続いた。話が尽きなかった。


 大川の普請の後、息もつかせずに狭野藩に大阪城修築の普請をするようにとの命令が下った。西軍に組みした外様の諸藩に普請命令が正式に下った。修築には五年以上の歳月が必要だ。秀忠を中心とする徳川幕藩体制は大名の経済的力をとことん削ぎ落とそうとしていた。しかし西軍に加わっていなかった狭野藩になぜ普請の下命が出たのか、しかも大川の普請の後、息もつかせぬ普請だ。何が狙いなのだろうか。

 狭野藩の普請は真田丸の片付けと清掃であった。あの名将真田幸村がつくりあげた出城を完全な更地にすることであった。

 そこに江戸上屋敷の徳田家老から密使来た。密使の報告は以下のようなものだった。

  1. 幕府は大川普請で狭野藩取り潰しを画策していた。資金が底をつき普請が中止ということになったら直ちに不届きとして処断、氏安を切腹させるつもりでいた。また中止した普請の後を引き受ける藩も決めて用意していた。

  2. 幕府は狭山藩が大川普請を約定通り成し遂げたことに驚嘆し、また警戒心を募らせている。草の者を潜りこませているとの噂あり。

  3. 幕府は今度の大阪城修復で、狭野藩に止めを刺そうとしている。諸藩で藩札を許可無く発行してはならないという締め付けも幕閣の中で詮議されている。

 氏安は徳川幕府が生殺与奪の権力を遮二無二強めようとしていることに戦慄した。戦慄の中で氏安は武者奮いした。「恐れてはならない、負けてはならぬ」

 氏安は大阪城修復のために狭野藩の武士二百名を選抜し、自分が普請の責任者になり、先頭に立つことを決意した。心密かに真田家の築城の有様をこの目で見ることができるまたと無い機会と考えた。「幸村様、お心にふれること、氏安懼れおおくも喜びとしております」 

 真田丸の撤去は休みなしにやれば半年で終わる。

 この公儀普請の指揮を執る責任者として藤堂高虎が任ぜられた。

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