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時代小説「欅風」(42)波江 寺子屋を始める

波江は隣の寺の農作業の手伝いを慈光和尚から頼まれ、千恵と一緒にやっていた。幸太も真面目に農作業をしていたが、身体が弱く長続きしなかった。顔がいつも青白かった。

「おばちゃん、おら疲れた」

そう言って寺の方に戻っていった。

「幸太ちゃんはどこか身体の具合が悪いのかしら」

千恵が言った。

「幸太ちゃんは『俺は畑仕事は嫌じゃないけど、読み書きもしたいんだ。』って言ってる」

「そうなの。ところで千恵ちゃんはどうなのかしら」

「私も読み書きができるようになりたいです」

「そう。・・・おばちゃん、考えてみるわね」


読み書きを教えるなら私にもできる。けれど畑仕事と直売所での販売、行商と忙しい日々の中で、いつそれができるかしら。

波江は心の中で呟いていた。花橘のつとめも辞めた今、収入の道は直売所と行商になっていたので、この二つの時間を減らすことはできない。花橘は収入のことを考えると本当は辞めたくはなかったのだが、今はできるだけ千恵の側にいたいという気持ちと、やはり和左衛門からの妾の話を断ってから、何となく気まずくなってしまった。三福の権利金のために借りた金を払って、店を辞めた。今迄の蓄えがそれでほとんど無くなってしまった。

和左衛門は波江がお店を辞めさせて頂きたいと伝えた時、穏やかに答えた。

「分かりました。今迄ご苦労様でした。ところでこれからどうしますか」

「畑仕事で暮らしを立てていくつもりです」

「そうですか、それは大変ですな。それでは身体に気をつけて」

「今迄大変お世話になりました。旦那様も達者にお過ごしください」


夜明けから昼迄、短い朝餉の時間を挟んで、自分達の畑そしてお寺の畑と働いた後、昼食の準備をしながら、波江は考えていた。食事の準備と後片付けの時間を何とか短くできないものかしら・・・。もしそれができるなら半刻ぐらいなら、千恵と幸太に読み書きを教えることができるかもしれない。

夕餉の後、波江は千恵に自分の考えを話した。

「千恵ちゃん。おばちゃん、千恵ちゃんと幸太ちゃんのために読み書きを教えてあげたいと思うの。でも毎日忙しいでしょ。そこでおばちゃん、考えたの。昼餉の後、半刻、読み書きの勉強をしよう。おばちゃんが先生よ。おばちゃんは子供の頃から読み書きをお父さんから教わったの。大丈夫よ。

千恵ちゃんに相談したいことは、勉強の時間をつくるために、食事の準備の時間を減らせないかということ。

おばちゃんが考えたのは、夕餉の支度の時に次の日の朝餉と昼餉を一緒につくるということなの。

朝餉は夕餉を多めにつくっておいて、残りを朝に回して簡単に済ませるのよ。漬物と味噌汁をつけて。昼餉は前の晩の夕餉に炊いたご飯をお握りにして、なめ味噌とかつけて食べるの。夕餉の時は時間もあるし、美味しい夕餉を食べよう。夕方は大忙しよ」

「おばちゃん。千恵も頑張ります。働いている人達はみんな食事の時間も忙しいわ。ゆっくり食べるなんてできないみたい。ところでおばちゃん、お勉強はどこでするんですか」

「お寺の慈光和尚様に相談して、お寺のお部屋を貸して貰おうと思っているの」

「お寺だったら夏も涼しくていいわ」


波江は次の日、お寺の畑の農作業の後、収穫した野菜を持って慈光和尚のもとに行った。

「和尚様、今朝取れた野菜を持ってきました。ダイコン、カブ、葱、小松菜、チンゲンサイ、芥子菜、そしてナスです」

波江は忙しい和尚のためにいつも二日分の野菜を収穫して持ってきていた。和尚から、そう頼まれていた。

「おや、ナスがまだとれましたか。」

「はい、秋ナスももう終りですね。あと残りいくつかというところです」

「畑の世話をして頂いて、ありがたいことです。昨日檀家を訪問した際、米を頂きましたので、ちょっと待ってくだされ、少しおすそ分けしましょうかな。」

そう言って奥に入って行く和尚の背を波江の「和尚様、そんなことをして頂いては申し訳ありません」という声が追ったが、和尚はにこにこしながら戻ってきた。

「今年は米が豊作のせいか、檀家から米を頂く機会が多いのじゃ。さあ、遠慮せずに持っていきなされ。いつも畑仕事ではお骨折り頂いているので、ほんのお礼の印ということで、受け取ってください」

「それでは和尚様のお言葉に甘えて、頂戴いたします。ありがとうございます。

ところで今日は一つご相談方々お願いがあるのです。」

「どんなことですかな」

「実は千恵と幸太のために読み書きを教える部屋をお借りできないものか、と。4~5人が座れるぐらいの部屋で良いのですが・・・」

「そのくらいの部屋で良いのですかな」

「はい」

「じつはな。最近幸太の他に太郎吉という幸太と同じ年頃の子供を預かっておるのじゃ。太郎吉は歳の頃は7歳といったところかな。道で倒れていたのを檀家の者が寺に運んできたのじゃ。どうも腹を空かして倒れたようだ。何か恐ろしい目にあったのか、部屋の中にいて魂が抜けたような顔をして、ぼんやりしている。可哀想じゃのう。私の寝間の隣の部屋が空いているので、そこを勉強の部屋にしたらどうかな。外からの光も入り明るくてちょうど良かろう。幸太と太郎吉にも是非読み書きを教えてくだされ」

「和尚様、重ね重ねありがとうございます。それでは昼餉の後、一刻ほど使わせて頂きます。早速来週から始めさせて頂いてよろしいでしょうか。」

和尚は突然思い出したように、

「この寺の先代の住職が亡くなった後、拙僧はこの寺に来たのじゃが、整理しておったら庫裏の中に童向けの本が何冊かあった。何かの役に立つかもしれんませんから、それを探しておきましょう」


波江は千恵と一緒に行商に出たついでに、童向けの習字用の紙と筆、硯を買い求めた。またお伽話の本を思い切って一冊買った。


そして千恵から前に卯の花を貰ったお店で油揚げを一枚買ってほしいと頼まれた。

「千恵ちゃん、油揚げを買ってどうするの」

「お母さんが教えてくれた料理を実際に作ってみたいの」

「そう、分かったわ」


家に帰り夕餉の支度に取り掛かった。千恵はダイコンの葉を水で洗い、細かく刻み、湯の中に入れ、かき回した後、すぐ笊に取り上げ、それを油を引いた鍋の中に入れて煎りつけた。葉に火が通ったのを見計らって、細かく刻んだ油揚げを入れて混ぜ、最後に、醤油を水で薄く伸ばしたものを全体にかけ、水分が無くなるまで煎っていた。

「おばちゃん、出来上がりです。食べてみてください」

「いいにおいがするわ。・・・美味しい!」

「おばちゃん、これは日持ちもいいし、身体にもいいの」

「それも千恵ちゃんのお母さんの料理なんだ」

「そうです。こうやって料理を作っているとお母さんを思い出すわ」

「さあ、今晩はお母さんも喜ぶ夕餉だね、千恵ちゃん」

千恵は台所の隅に駆け寄り、蹲って泣いた。そして言った。

「お母さん、千恵、今幸せだよ。おばちゃんと頑張って暮らしています」

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