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時代小説「欅風」(58)狭野藩の殖産事業の発展

米の藩内価格を設定してから農民は安心して米づくりに励むようになった。自分たちがやるべきことは病虫害から稲を守り、天候不順から守ることであった。増産すればそれが自分達の実入りになり、また藩の方では年貢米と買い上げた余剰米を藩の運営、藩士への支給さらには不作の折の備蓄にまわしていた。米は藩の収入の土台となっている。狭野藩だけではなくどこの藩も事情は同じであった。農民の側もそれぞれ農事講をつくり、品種改良に努めている。以前はその積立金もままならなかったが、今はそれができるようになった。講の時の農民同士の話だ。白髪混じりに年配の農民が言う。

「この間やってきた堺の薬売りがこんなことを言っておったわ。・・・米の藩内価格制で、狭野藩の藩民は高い米を食べはっている、と聞いてますが、ほんまでっしゃろか。」

年若い農民が聞く。

「それで何んと答えた?」

年配の農民が言う。

「一概には高いとは言えませんがな。米は相場もんや。高い時もあれば安い時もある。けど藩内の米はいつも価格が決まっている。例えば加賀藩が米の津留めをすれば大阪の米価格は吊り上る。その時狭野藩では安い米を食べているということになりますな」

もう一人の中年の農民が聞いた話だが、と前置きをして話したことはとんでもないことだった。

「米が豊作の時、京都では米の食べ残しが道端に雪のように捨てられる。ところが凶作の時は餓えで死んだ者が枯れ木のように道端に捨てられる」

年配の農民は講の皆に向かって言った。

「ワシらの藩は農民も工人もそして商人も大切にしてくれる。病気の時も、山崩れ、川の氾濫の時も、そしてワシらの日々の暮らしも護ってくれる。殿様もその御家来も、我らは藩民の友になる、と言われている。藩がこの度打ち出した政策もすべて藩を豊かで、生き甲斐のある国にするためだ。殿は我らの声を磨きの砂にするとも言われた」

藩内の米の価格を維持するためには商人の協力も欠かせない。天岡たちは藩内の商人を集めて、この度の藩の政策を説明した後で、こう付け加えた。

「藩経済の土台は米であり、藩の経済を発展させるものは主要農産物と特産品である。藩内で流通する米は藩が買い上げる。一方主要農産物についても藩内で販売する場合はすべて最低価格以上で販売することになるが、他所、他藩に売る場合は藩の物産総会所を通して販売することとする。値段は商いで相手もあることだから商人が決めた価格で販売して貰って結構だ。なお藩の良品証明書を発行して添付するので、その手数料を別途決めることとする。最後に藩札だが、今後とも何かとご公儀の普請など出費が続く。藩札の発行は必ず米の裏付けに基づいて行なう。最後に商人にも冥加金ではなく、農民と同じように年貢に相当するものを藩に納めて貰うことになる」

最後のところで商人たちがざわついた。

年配の商人が聞く。

「天岡様、年貢に相当するものとはどんなもんでしゃろか」

天岡は答える。

「当世は士農工商と言われている。しかし我藩は士も農も工も商も藩を護り、支え、守り立て、また互いの立場・役割を尊重し、協力し合っていくということでは皆同じだ。今迄商人のための税がはっきり決まっていなかった。そこに賄賂など腐敗の温床も生まれた。商人は屏風ではない。藩内のモノの流れを潤滑にし、必要としている人に必要なモノを届けるために、なくてはならない藩民なのだ」

また他の主要生産物について設定した最低価格制も効果を上げている。これらも藩が買い付けて他藩、江戸、大阪で販売を開始した。まず以前から続いている松前藩向けの稲藁で編んだ草履は順調に販売を伸ばしている。泥炭の鉱脈の調査が終った。狭山藩の幾つかの場所で試掘した結果、狭山池周辺地域に多くの泥炭層があることが分かった。米ぬかと一緒にしたボカシをまず藩内の農地で使っているが、特に畑地では効果が大きく、葉物が良く育つ。しかし、採掘すれば無くなっていく資源なので、計画的な生産が必要となる。

生糸については以前外国に輸出していたが、それが難しくなるので今後は生糸の原糸ではなく、反物にして大阪、江戸向けに販売することにした。今まで狭野藩にとって大きな収入源であったが、今後は国内向けとなる。どのようなものが売れるか、現在日本橋の荻屋にいる戸部新之助が調べているところだ。戸部からの報告では、絹織物は大名、豪商など販路が限られているので、狭野藩としては江戸の町人が好む柄の木綿の反物の生産にも力を入れるべきだが、富裕な商人もいるので絹織物の売り方については今後研究していきたい、と付け加えてあった。

今迄生糸中心の生産であったので、木綿の生産には特に力を入れていなかったが、藩内で以前から木綿を生産して、自分達で着物を作っている農家が多かった。幸いなことに木綿を増産するための素地はあった。そこで生糸を生産している農家には反物迄つくるように指導した。京都から反物職人を呼んできて、指導にあたってもらっている。木綿は作付け面積を増やすと同時に、こちらも反物にするために伊勢から職人に来てもらい指導を受けている。これからは原糸ではなく、反物に加工して販売する、というのが基本方針となった。さて新しく始めた特産品の目玉になるのが、薬草の栽培と販売であった。薬草については奈良の薬師寺に縁のある薬種店から職人を招き、山間部の傾斜地帯を視察してもらい、

栽培できる薬草につき指導を受けた。氏安の願いは、薬草を使い、藩民の健康を守ることであった。将来藩内を巡り歩く薬売りが藩民の家を定期的に訪れ、薬箱を置いてその都度必要な分だけ使ってもらう。薬売りが訪れた時に支払い、また使った薬種の効果を薬売りに話してもらう。そんな仕組を考えていた。そればかりではなく、薬種を使った薬湯の温浴施設の開設も計画している。農民は一日の農作業の後、薬湯に漬かって疲れを癒す。山の泉の近くに施設をつくり、使った湯は一度ため池に集め、冷ましてから川に流すこととした。勿論農民だけではなく、工人も商人も、侍も使うことができる。竈で一斉に湯を沸かし、いくつもの泉水を湛えたヒノキの風呂に湯を注ぐ。竈の薪は山の枝落としで集めたものを使う。薬湯は藩民の憩いと交流の場にもなろう。

狭野藩の藩庁には、泥炭小組、生糸・木綿反物小組と薬湯小組が置かれた。


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