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時代小説「欅風」(59)桑名村の天岡組と朝明川の叡基組

天岡は桑名村の大庄屋と話し合いを重ねていた。米の生産を安定させることと、良質の米を増産することが話し合いの中心であった。天岡は桑名村44村に米作りの名人を一人推薦するように手紙を書いた。二ヵ月後霜月の晦日に、桑名の大庄屋の屋敷に集まるようにと認めた。それぞれの村では寄り合いが始まり、自分達の村で誰が米つくりの名人か、選ぶための話合いが続いた。最初は内輪で揉めていたが、そのうち対抗意識が生まれ、「他の村には負けられねえ」と言う気持が高まり、村の代表、米つくり名人が次々と決まっていった。

44村の米つくり名人が集まった日、天岡は大庄屋の大屋敷で、皆を前にしてこのように言った。

「今日はわざわざ起こし頂き、こころからありがたく思っております。皆さんの力でこの桑名村を米づくりで日の本一にしようではありませんか。私どもは幕府から御下命を受けてこの桑名村のために粉骨砕身取り組む所存でございます。皆さんが一同に顔を合わせるのは今日が初めてですから、まずは固い話はこれまでにしてお互いを知るため、夕餉を一緒にしながら、歓談の時を持つことにしましょう。今晩はこの大庄屋さんと周りの農家にお宿を提供して頂くことになっています。夕餉までまだ時間がありますので、庭に狭野藩で開発した農機具などを並べておりますので、ゆるりとご覧ください」

各地の米つくりの名人はぞろぞろと庭に出て、農機具を見た。庭には稲の苗を一定の間隔に植えるための竹と紐でつくった田植え縄、この縄は苗を一定の間隔で植える(正條植え)ために役に立つ。しろかき用の馬鍬、回転式の刃のついた除草機、脱穀用千歯、籾すり用の臼、唐箕くり、千石どおし、米穀検査用の刺し。

「正條植えができるこの道具は、ウチの田圃でも使いたいね。これはいい。今迄草取りが大変だったんだ。正條植えをして、この除草機を使えば四つんばいになって草取りをしないで済む」

「この唐箕くりは右手でここを掴んで回して風を起こすのか。風の力で米と籾と籾殻を分けるのか」

「狭野藩では農民と工人が互いに助け合っているようだ。農民がこんなことで困っている、こんなものが欲しいと頼みごとを持ち込んでくると、工人が知恵を絞って創意工夫し、新しいものをつくっているのだろう」

名人達は熱心に狭野藩の農民と工人が合作した農機具を見て回っていた。中には動かすものもいた。

夕餉は贅沢なものはなかったが、地元で取れた野菜に、桑名の港から上がった魚を料理したものが出された。地元の女将さんたちが腕を振るってつくった料理だった。酒も出された。

夕餉が終った時を見計らって、天岡は名人達を前にして言った。

「まことに宴たけなわですが、遅くなりましたので、そろそろお開きにしたいと思いますがいかがでしょうか。最後に私の方から皆さんにお話があります。二つです。

一つは皆さん、それぞれの地区の米作りの名人です。いかがでしょうか、互いに切磋琢磨するために、桑名44村、米つくりで競い合ったらどうでしょうか。そして年1回米づくりの品評会を開いて一番、二番、三番、努力賞という順番で表彰します。

もう一つは農機具の改良です。使いやすく、安全で、しかも能率の良い農機具を皆で開発していきませんか。桑名村の工人の皆さんにも相談相手になって頂いて、もっと沢山の米をつくろうではありませんか。勿論、狭野藩の工人もお手伝いさせて頂きます。


名人達は暫く黙っていたが、次々に手が上がり、「いい考えだ。やりましょう」声が相次いだ。

天岡は頭を下げてから言った。「それでは皆さん、米づくりの品評会、農機具の改良の件、ご賛同頂きありがとうございます。詳しいことはこれから詰めていきますが、進めることに致します」

夕餉の後、名人達は組に分かれて、周りの農家に散っていった。それぞれの農家で話の続きがあることだろう。みんなで一同に集まる、そして小さな組に分かれて一晩語り合って親睦を深める。こうして桑名44村の農民が力を合わせることができれば、桑名村の再建は軌道に乗るはずだ。明日名人達が帰った後、天岡は農家一軒一軒を訪ねて一夜の宿代を払うことにしている。そして大庄屋の屋敷で開いた夕餉の食事代も、関ってくれた人達に払う約束になっている。天岡は自分の宿に戻ってから帳簿を開き、費用を書き込んだ。どうしても米の増産は必要なのだ。まだ桑名44村の者は知らないが、交通の要所桑名の宿場を守るために助郷制度が更に強化される。村々の負担はそれだけ大きくなるのだ。そしてふと思った。昔の自分であれば、このように平たい心で、農民に接することはできなかっただろう。天岡は出世を鼻にかけ、人を人とも思わなかった時の自分を思い出していた。あのことがなかったら、自分は変ることができなかった。またあの人に出遭うことがなかったら。

手もとに寄せた蝋燭の炎がどこからか吹いてきた風に激しく揺れた。


朝明川の洗掘個所に叡基は立っていた。河床の地盤の弱さが問題だった。その上に堤を築いても沈下したり、あるいはヒビ割れたり、ひどい時には傾いたりすることだろう。どこに松杭を打ち込むか決めなければならない。暫く川面を見ていた叡基が呟き始めた。

「あの線に松杭を二尺間隔に30間打ち込むとすると・・・一列で90本。二列打ち込むと270本。それにしても長さ3間の松杭を船の上に立って打ち込むわけにもいくまい。30間、3列の松杭を打ち込むために足場を川の中に二間毎に設けることになる。仮設足場にためなら松の間伐材を使えばいい。松杭を打ち込んだ後、杭と杭の間の横板を隙間無く乗せ、まず砂利を播き出し、それから敷き葉工法で土と葉を重ねいく・・・。叡基は地元の古老、農民数人を作業班の中に入れ、話を聞いていた。叡基の頭の片隅には武田信玄の千曲川普請のことがいつも規範のようにしてあった。

「ここがひどく洗掘されるのは少し上流の方で川がひどく曲がっているためですだ。曲がりの角度を少しゆるやかにしたら、ここにドーンと当る衝撃も少しは軽くなるはずです。」

ある日叡基は作業班の古老、農民と一緒に、上流の川も傍らに立っていた。

「なるほど、そういうことか」

川の流れを付け替えることは簡単なことではない。農民には代替地を世話しなければならないし、また自然の力が造った従来の堤を崩し、新しい堤をつくり、川底を掘り上げるには当然膨大な費用がかかる。

叡基は思案した。その場所は堤が決壊して氾濫する場所ではないので、必要が出てきたら第二期工事とする。当面はそこに大石を投げ込み、大石に川の流れを受け止めさせ、堤を守ると同時に流れの角度を少し変えて緩やかにする、ということにした。

叡基は作業班の者達を集め、工事の進め方について説明した。作業方針は安全第一。正確工事。作業の段取りを決め、資材の調達時期、費用などを決めた。

叡基は自分に言い聞かせた。「さあこれからいよいよ始まる。川のこころになって堤を築こう」

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