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時代小説「欅風」(68)狭野藩 藩校開設

 狭野藩で始まった塾は今年で三年目になる。毎年それぞれの塾は受講生で定員一杯になった。武士のための護民塾では大阪、京都、堺から高名な先生を招いて、講話を聞いた。題は、国を治めるということはどういうことか、物価はどのようにして決まるか、これからの社会はどのようになっていくか、などだった。一方、藩の財政状態の説明と改善策、助郷制度の問題点、税率の決め方など実際的な事柄になどについても、ある時は専門家を呼んで、研究を重ねた。そして三ヶ月毎にどのようなことを学んだか、藩主の氏安に塾長が報告した。

 氏安は報告を聞いた後、いつも口癖のように言う。

「引き続き励んでほしい。武士が狭野藩を護るための学びに打ち込んでいけば、民、百姓もかならずついてきてくれるはずだ。誰のための学んでいるのか、絶えずそこに立ち返るのだ。」

 農民の塾、「国柱塾」の塾長は初夏の田植え前、秋の刈取りの後、年2回、氏安のところに報告に来る。秋に氏安の前に出た時、塾長は今年の前半の学びについて詳しく報告した。

1.稲の病害虫対策について

2.田植えから秋の収穫迄の気象の変化について

3.青物につく病虫害対策について

4.山の方で栽培している薬草について

5.農機具の改良について

 報告を聞いた後、氏安は塾長に労いの言葉をかける。

「何分お天道様が相手故、苦労が多いことと思う。天は恵みも与えてくださるが、試練も与えられる。農は天地の中で、食べ物を生産するという人の努力と知恵が最も求めらる仕事だと私は思っている。皆のものが日々自然と向き合いながら、その摂理を学び、精進するように願っている」

 工人の塾長も年二回、氏安の前に出る。工人のための塾である国富塾に受講に来るものは村の鍛冶屋、大工、木工屋、左官屋、井戸掘り屋、漬物屋、傘屋、履物屋などの子弟だ。親から塾に行って勉強して来いと言われて受講しているものが多いが、今では塾に来るのが楽しみになっている。それぞれの分野の村で名人と言われるような年季の入った職人が講師になって教える。面白くないはずがない。

 氏安は工人の塾長の報告を聞いた後、言う。

「私も一度名人の話を聞いてみたいものだ。ものづくりは藩の民の生活を便利にし、農業を発展させる大きな力だ。良い道具があれば、少ない人数で多くの仕事が、それも早くできるようになる。使う者の立場に立って良い道具づくりを、新しいやり方を考えることのできる若者を育てていってほしい」

 商人の塾「流通塾」の塾長が報告に来た時には、天岡が氏安の傍らに居た。塾長は3つのことを報告した。

1.商人のあるべき姿、商人道について学んでいる。教本は大阪の懐仁堂の屯倉徳庵から譲り受けたものだ。

2.物の流れ、特に舟運について。誉田利明の「舟運秘策」を学んでいる。船であれば大量に安価に運ぶことができる。

3.大福帖の書き方、つけ方について学んでいる。


 農民、工人、商人の塾長から、同じ要望が2つ出た。

1.読み書きの時間をもう少し多く取りたい。狭野藩では領民全てが読み書きできるようにしたい。

2.これからは経済の時代。数字で物事を判断することが多くなる。それは農民、工人、商人を問わない。和算の時間をもう少し多く取りたい。また和算の専門家を招聘して頂きたい。


 三ヵ月後、氏安から狭野藩の領民に以下のような知らせが伝えられた。

1.塾を藩校に格上げする

2.領民は今迄と同じように受講して良い

3.一年に一度、試験を行なう。合格したものには賞状を与える

4.試験には何度でも挑戦できる

5.新たに文化、芸能についても講座を設ける。

 藩校への格上げに伴い、講師陣に大阪、京都、堺から専門家が招聘された。読み書きの専門家、和算の専門家が特別講師という立場で、師範、また受講生の指導にあたる。懐仁堂の屯倉徳庵も特別講師として迎えられた。

 そしてこの藩校の校長は藩主、氏安。副校長は天岡文七郎となった。


 その日天岡は帰宅してから、妻の妙に声をかけた。しかし、妙は居なかった。ちゃぶ台の上に手紙が置いてある。拡げてみると

「私は実家に暫く帰ることにします。このような気の病を患い、あなたの足でまといになていることを本当の申し訳なく思っております。暫くはそっとしておいてくださいな」

  

 天岡は妙と夫婦になった頃、藩庁から帰ってきてそそくさと夕食を取った後、すぐに自分の居室にこもり、読書に没頭した。本の購入費には糸目をつけなかった。家計は決して楽でないのに、天岡は頓着することなく、本を買った。家計の不足を補うため、妙は度々実家に無心をしていた。居室で読書をしていると戸の向こう側で妙が泣いている声が聞こえた。しかし天岡は読書を止めなかった。「俺は家族の温かさ、と言う大切なものをつくれない、冷たい男なのだ。」妙は二度流産した後、身ごもることは無かった。「俺は自分のことで精一杯、そしていつの間にか多くの人々を傷つけている。」

 藩庁では部下の家臣から反発を受け、浮き上がったことがある。

「あなた様の下では役に立つ働きができかねます」

 その時の上司の計らいで、天岡は大阪の久宝寺町の藩庁の出先に出向を命じられた。仕事と言えば、書類を整理し、綴じるようなことばかりだった。宿舎は久宝寺町の藩庁のすぐそばの小さな宿舎の一室をあてがわれた。

 天岡は一時は木賀才蔵と比べられ、将来を期待されていた。しかし、人の心が分からない人間だった。そんな時、その時の藩庁の出先の長、平井俊之助に紹介されて、懐仁堂の屯倉徳庵と知り合った。徳庵はそんな天岡をゆったりと受け入れてくれた。ただただ話を聞いてくれた。そして大阪の町を歩きながら、人々の日々の生業について話してくれた。

「職業に貴賎はない、と私は思っていますよ」

「どんな仕事にも、これは宝だ、と思えることがあります」

「仕事をしていて嬉しいことは他の人と気持が通じ合った時です」

「私だからこそできることを持って他の人の役に立つ。それが生きている、生かされてる、っていうことではないでしょうか。私はそう思います」

 天岡は徳庵の話を聞きながら、生まれ変りたい、と思った。10年以上も前のことだが、昨日のように思い出される。あれから自分はどこまで変ることができたのだろう。本当のところは余り変っていないのかもしれない。


 天岡は妙の実家に向った。妙をこのままにしておいてはいけない。

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