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時代小説「欅風」(7)江戸市中散歩・その一

 久し振りの非番の日。新之助は西新井大師詣でに行くことにした。勤番長屋の自分の部屋を掃除した後、藩の下屋敷を四つ時に出て歩き始めた。出かけに忘れず武鑑を懐に入れた。下屋敷を出たのは四つ時だった。

「今日は何も予定がない。物見遊山を兼ねてゆっくり参ろう」

 藤堂藩下屋敷の横の並木道を歩きながら、新之助は眼下に広がっている畑と点在する雑木林、その中を縫うようにゆっくりと流れる小川、どこか国許の風景を思わせる光景に時々立ち止まりながら歩いていた。梅雨明けの午前の太陽。日差しが強かった。新之助の足はまず上野に向かった。以前不忍池の周りの茶屋で出す蓮めしがうまいと聞いたことがある。まずそこで昼をしたためよう、というわけである。

 不忍池の畔に座り、新之助は呟いていた。

「自分はいつまで江戸にいるのだろうか。場合によっては、来年は国許に帰っているかもしれない。宮仕えの身に明日のことなど分かろうはずはないのだ」

 池の蓮の葉の間を鴨が泳いでいる。どうやら親子のようだ。遠くの方で槌の音が聞こえる。今徳川将軍家の菩提寺である寛永寺は建造中なのだ。建築資材を運ぶ荷車の往来が激しい。江戸は今あちらこちらで大きな普請が行われている。江戸もこれからどんどん変わっていく。


 丁度九つ時となったので、不忍池の周囲の茶屋、料理屋を見て歩きながら、そこそこの値段の蓮めし屋に入った。入れ込みが丁度昼時になっていたため、混んでいたが、何とか一人が座れる場所が空いていた。

「やはり賑やかだなあ、上野は」

 そこに侍の客が連れと一緒に入ってきた。

 店の小女に「予約を取っている。四人分だ。案内せい。と」命じた。

 慌てて店の主人が飛び出してきて、「荒井様、どうぞこちらへ」と奥の座敷に案内した。

 どこの藩のものだろうか。新之助は懐の武鑑に手を伸ばした。大藩の侍のようだ。

 奥から大声で話す声が聞こえてくる。耳を覆いたくなるような下世話な話だった。

「だから武士は嫌われるのだ・・・」

 胸のうちで苦い思いを噛み潰しながら、新之助は蓮めしに舌鼓を打った。

 払いを済ませ、次は神田に向かった。神田には江戸近在からの青物が集まる場所、神田八辻ヶ原に青物市場がある。前から一度行ってみたいと思っていたところだ。

 小松川村からは菜が、千住村からは葱が、練馬村からは大根が、川越村からはサツマイモが、・・・ありとあらゆる青物が運び込まれ、取引されているそうな。


 神田青物市場、やっちゃ場に入ると今朝の取引が終わったのか、青物、土物が次から次へと、運び出されている。天秤棒だったり、背中の背負子に入れたり、馬の背に振り分けたり、その人の数と青物の量に新之助は圧倒されていた。

「さすがお江戸は大きな胃袋を持っている」

 下屋敷の前栽畑向けであろうか。青物、土物の種と苗を売っている店があった。どんなものを売っているのか、新之助は青物組のお役目のこともあり覗いてみた。

 早速店の者が声をかけてきた。

「お侍様、お安くしておきますぜ。練馬大根の種、どうです。元はと言えば徳川御三家、尾張藩から献上された宮重大根が元でさあ。ウチの店ではお国自慢の青物、土物の種と苗を江戸風に品種改良したものを扱っているんです。どうですか、一つ。」

 そう言いながら、店の者は新之助がどこの藩の者か、見当をつけようとしている。

 前栽畑の作付けについては青物組頭高田修理が最終的に決めることになっている。勝手な真似はできない。

「また来る」

 新之助はそう言ってその場を離れた。

 

 神田から大川に出て堤に沿って北に向かい、浅草寺門前に出た。参拝客で賑わっている。

 仲見世をぶらぶら歩いていると肩がぶつかりそうになる。江戸の繁華街ではスリがいると聞いている。新之助は少ない小遣いではあるが、懐に手を入れ、財布の在り処をしっかり確かめた。

 煎餅を目の前で焼いている店がある。面白いように次から次へと焼けていく。醤油の香ばしい煙が鼻をくすぐる。

 伝法院通りに出て甘味処の店を見て歩いた。二軒目の店、「花橘」という暖簾が掛かった店に入った。先客はいなかった。店の女が奥から急いで出てきたのを見て、新之助は驚いた。

 三福の女将、波江だったのだ。

「波江さん・・・だな?」

「あら、戸部様」 

「波江さんは、ここで働いているのか」

「そうなんです。朝から八つ時までここで働いているんですよ」

「大変だな」

「そんなことはありませんよ。ところで今日は何ですか」

「散歩がてら西新井大師にお参りさ」

「そうですか。・・・ところで何か召し上がりますか」

「そうだな。黒胡麻のすりつぶしをかけた白玉あんみつでも貰おうか」

「あら。辛いものだけでなく、甘い方もいけるんですね」

「屋敷からずっと歩いてきて、喉も渇いたし、なんだか甘いものが欲しくなった」

 新之助は波江の化粧が少し濃い目なのが気になった。

 客が入ってきた。

 波江が客の迎えに出たのを汐に、新之助は店を出た。三ノ輪に出て、それから千住宿の賑わいの中、目もくれず大川を渡った。西新井迄もうすぐだ。帰りの道のことを考え、歩を早めていた。辺りは一面田圃で、人通りがまばらだ。西新井大師についた新之助は御堂の前で手を合わせ、三枝と八重の安全と健康を祈った。三枝からの便りでは二人とも無事に過ごしているとのことだが、八重の目はまだ良くなっていないようだった。

「八重も十二歳になるか。早いものだ。男親の自分になついていた娘のことを思うと、新之助は思わず「八重よ、もうすぐ会えるよう祈ったよ」

 心の中で八重に話しかけた。

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