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時代小説「欅風」(8)波江の秘密

 波江は花橘の勤めが終わると急ぎ、板橋の農家の離れに戻り、夜の「三福」の客のための準備に取り掛かった。お店で料理するための青物、土物を畑に行って収穫し、揃えた。お品書きはその日畑でとれた青物、土物で決めた。

 波江は肥前の平戸島で生まれ、娘の頃、キリシタンの伝道に触れ耶蘇教に惹かれるようになった。バテレンが耶蘇の農家で小さな集まりを開いていたのに誘われたのがキッカケだった。父母は反対したが、波江は耶蘇教のイエズスが説く愛と天の御国にいつの間にか救いを求めていた。父は地上に阿弥陀の世界を実現しようとした一向宗の宗徒が武士と激しい戦いをしたことを話した。「所詮この世は修羅の世界なのだ。耶蘇教も同じ結果になるだろう。外国の宗教だ。一向宗の時よりももっと惨いことが起こるだろう。戦いはこの地上から無くなることはないのだ。なぜ日本の宗教を信じない。親鸞上人の教えはどうなのだ」と。

 戦国の世の中。明日の命がどうなるか、誰にも分からなかった。波江の父は戦場で深手を負い、自分では歩くことができなくなっていた。それまでは温厚な父だったが、身体を自由に動かせない苛立ち、もどかしさからか、性格が変わり、急に怒ったり、叫んだり、物を投げたりするようになった。母を叩くこともあったが、母がそれにじっと耐えている姿を波江は柱の影から見ていた。

波江には兄弟はいなかった。

 波江は独り屋敷の裏の竹林に走り込み、神仏に祈った。

「私の家を元の幸せな家にしてください。母上が死ぬことのないようにお守りください」

 父の暴力に耐えていた母がある日から床に伏せたまま起き上がってこないという日が続くようになった。

 波江は父と母それに自分のために食事をつくった。港に上がる魚を買いに、畑の青物を買いに小走りの波江の姿があった。

 波江は料理をつくるのが好きだった。料理を作っている時は、何もかも忘れることができたし、とりわけ嬉しかったのは、父が波江の料理を喜んでくれたことだ。

「波江の料理はきれいだ。そして食べているとなぜかこころが穏やかになる」

 波江はいつも小さな工夫をしていた。お皿に必ず一つ、季節を感じさせる花とか葉、木の実を添えた。外に出ることがままならぬ父にとっては波江の心遣いが嬉しかったのだろう。そんな父を悲しませることは辛かったが、波江は父の反対を押し切る形で耶蘇教のイエズスの教えを受け入れたいと父母に願った。

「高山右近という立派な殿様もイエズスを信じて大勢の人達を導いています。安土にはセミナリオもあるし、それにここ平戸にもイエズスを信じている人がいます。私は戦いのない平和な国が来ることを願っています」

 母は父が身体の不自由さが増すにつれ、暴力を受けることも少なくなり、元気を取り戻したが、気が向いた時しか料理をつくらなくなり、畑に出て農作業に明け暮れていた。

「外で働いている方がよっぽどせいせいする」

 そのうち父の衰弱が進み、しきりに「波江の花嫁姿が見たい。ワシの孫の顔が見たい」というようになった。

 小禄の斉藤家故なかなか相手を見つけるのが難しかった。それでも間に立ってくれる人があり、縁談がまとまった。相手は御家人の次男であった。お役目はお納戸組で、それほど目立つ役職ではなかった。

 ささやかな祝言を見届けるようにして、父はこの世を去った。それを境に母もすっかり老けてしまった。

 夫の兵庫は笑顔の少ない、いつも自分のことで精一杯という男だった。波江はこれからの生活がどのようなものになるか、おおよその見当がついたが、

「それならそれで、精一杯明るく生きよう」と心に誓った。

 しかし、夫婦になって五年経ったが、子宝に恵まれなかった。兵庫の実家は離縁をほのめかし始めた。決定的だったのは、波江が夜眠れないままに水屋の片隅に蹲り、クルスを持って祈っている姿を夫に見られたことだった。

「波江、・・・お前は耶蘇だったのか」

 波江はあの時の兵庫の冷たい目を今でも忘れることはできない。直ちに離縁状を突きつけられ、家を追い出された。暫く実家の母のところにいたが、居づらくなり、江戸にいる親戚を訪ねるということで、平戸を離れ、江戸に向かった。

 そして江戸にある耶蘇の集まりにも密かに集うようになった。茗荷谷村の小石川に集会所があった。湯立坂の坂道を下りきったところにある藁葺きの農家がそれで家主は隠れキリシタンだった。農作業研究のための寄り合いという名目で集まっていた。最初に波江が連れていかれた時はあちらこちらと曲がりながら、つけている者がいないかどうか確かめながらだった。

 耶蘇の友人から今離れを借りている農家を紹介して貰った。

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