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時代小説「欅風」(61)氏安 幕閣に入る

 朝の評定では家老が進行役を勤める。お役目の者が一人一人報告、説明をする。その際、氏安は丁寧に話を聞くよう心がけている。

「塾について準備作業が進んでいることを嬉しく思う。ところで塾で使う教材はどのようにして準備するのか」

役目の者が答える。

「教材は師範として選ばれた者にそれぞれ準備させる所存です。それぞれの師範が本分に基づいて考え抜いたものをそれぞれ作成すれば良いと思います。まだ始めの段階ですし、いろいろと試していくなかで、自ずから相応しいものが出来上がってくると存じます」

 氏安は評定に出ているものに、必ず一言言わせるようにしていた。そして全員の意見を聞いた上で結論を出すようにした。見解が別れた時は再度評定する、ということで評定に出ている者に考えさせた。

氏安は言う。

「見解が別れるということは、まだ全体が見えておらぬということだ。またわれわれの考えがまだまだ浅いということではないかな」

 氏安は側室であった母の教えをいつも胸の奥底に抱いていた。母は自分が言うことに対し、

「それは違います。正しいのは・・・」とは言わなかった。自分が考えたことは幼かったり、明らかに間違っているようなことでも、「そうですか。なるほどそう考えたんですね。その理由はなんですか」。自分の考えを聞いた後で、考え込む母がいた。母はある時、このように言ったことがある。

「人は自分の言ったことを頭から否定されるとまるで自分自身が否定されたように思うものです。そのようなことが続くといつの間にか、人は自分で自分のことを信じられなくなります。そしてあなたを遠ざけたり、更には憎んだりするようになります。ですからあなたも心してください。人を柔らかに受け止める。言葉は刃にもなり、温かい気持で差し伸べる手にもなりますよ」

 氏安は忠誠、奉公という精神的姿勢を否定しているわけではなかった。しかし「殿様、殿様」と朝夕藩主をあたかも神のように唱え、崇める行き方の中に危険な匂い、さらに言えば狂気を感じていた。藩主は神のような存在ではないのだ。

 評定が進む中で、塾のそれぞれの名前が決まっていった。武士の塾名は「護民塾」農民の塾名は「国柱塾」工人の塾名は「国富塾」そして商人の塾名は「流通塾」。師範の中から互選で塾長を選らんだ。塾が目指すことは一つだった。「新田開発よりも人材開発、人材興国」

 師範が決まり、塾長が決まり、塾名が決まった後、直ちに受講生の募集が始まった。

1.老若男女別なく受講できる事

2.途中で入塾し、途中で退塾できる事

3.男女については仕切りを設ける事

4、受講料は無料とする事

5.期間は1年間とする事

 氏安が期待した通り、直ぐに塾は定員を満たした。

 これは塾であった。師範は自分がつくった教材に基づき講話をし、講話の後は必ず質疑応答を行なった。そして師範から必ず宿題が出た。宿題は領民の生活、仕事に根差した「たとえ話」が多かった。それぞれの師範が物語づくりに知恵を絞った。

「ある村に戦で怪我をした者がおった。左腕を刀で切られ、右手一本になってしもうた。

 畑に出ても両腕があるものには敵わん。そのうちこの者は、俺は役に立たん。皆の足手まといになる。それにゴクつぶしだ。いっそ死んでしまおうか、と考えた。さて皆さんがこの者の兄者だったら、また母親だったらどうするか」

 一番受講生の多い「国柱塾」で師範から以上のような宿題が出された。師範は言う。「これが正解というものはない。皆さんがそれぞれ考えたことが正解なのだ。次回はその正解をお互いに披露し合うことにする」

「護民塾」でも「国富塾」でも「流通塾」でも同じように、自分の問題として考えられるような宿題が出された。

 狭野藩の領民の間で塾のことが皆の口に上るようになった。

「俺も塾に行きてえ」

 塾は日中の仕事が終ってから開かれた。労働の疲れのためだろうか、居眠りしているものもいる。中には鼾をかいているものも。あまり鼾がひどいときはつついて起こすが、そうでもない時はそのままだ。また塾に遅れてくるものもいる。そのような時、師範は言う。「よく来てくれた。仕事は片付いたか」

 仕事の後、勉学に励むということは容易なことではない。日中の労働で農民、工人、商人は疲れている。塾の学びは楽しく、また実際に役立つものでなければならない。そうでなければ続けていくことは難しくなる。

 武士達は日中それほど忙しくないので、農民、工人、商人の仕事の大変さが分からないということもあろう。狭野藩では武士も月に1回、それぞれの希望で農民、工人、商人のそれぞれの職場に行って働くことが奨励された。

 それぞれの塾が軌道に乗る迄は時間がかかることだろう。狭野藩百年の計なのだからじっくり取り組んでいけば良い。願うことは学びの裾野を拡げることにあった。裾野が広がり、大きくなれば、自ずから頂きも高くなっていく。領民に支えられて、優れた者が輩出し、

 狭野藩の将来を担っていく人材が現れることを氏安は期待していた。

 時期を見て、大阪、京都、堺から優れた先生に来て頂いて、講話をしてもらうことにしよう。師範にとっても、受講生にとっても啓発されるまたとない機会になるであろう。

 日々の報告も因果関係をはっきりさせて行なうようにしてから、短時間で済むようになった。評定は一刻迄として、それ以上時間をかけないようにした。

 ある日江戸城の土井利勝より書状が届いた。直ぐに登城するように、と書かれていた。氏安は旅装に着替え、直ちに江戸表に向った。江戸屋敷の徳田家老を伴い、江戸城の内桜田門に出頭した。

「こちらにどうぞ」と促されて城内に入った。案内されたところは黒書院の控えの間だった。待つともなく土井利勝が出てきた。

 土井は柔和な顔に笑顔を浮かべ、氏安に声をかけた。

「変りないか。桑名44村の建て直しの儀、しっかり頼むぞ」

 その後で、これは殿からのご下命であると前置きして、

「貴公に御料地担当の役目を命じる。」

 氏安は幕閣の一人に加えられた。

 黒書院の中に人の気配があった。


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