時代小説「欅風」(11)波江・身辺変化その二
二週間後、やっと床払いができた。まだ少しふらふらしたが、波江はまず母屋に挨拶に行った。「お陰様で元気になりました。何とお礼を申し上げたらいいのか・・・、本当にありがとうございました」
菊枝がいた。「まだ病み上がりなんだから、無理をしてはいけねえだよ」
波江は畑に向かった。青物は順調に育っていた。京太・菊枝夫婦の世話のお陰だ。
「今晩からお店を開けよう」青物を見ながら波江は今晩のお品書きを考えた。
「三福」の店を開けたが、その晩来たのは常連の大店の主人風の老人だけだった。三福を贔屓にしていて、一週間に一回は来る。波江は風邪をこじらせて店を休んだことを詫びた。ほかに誰も客が来ないのを見届けてから、老人は切り出した。
「ところで、この間の私の頼みを聞いてくれるかね」
老人は商家の主人で、先年連れ合いを病気で亡くしてから、後添えを探していた。この老人の名前は柴橋和左衛門といい和菓子の材料を商っているが、最近は店を番頭に任せ、店に出るのは帳簿を見るため週一日だった。一方浅草伝法院では茶店「花橘」という店を持っており、こちらの方は一日置きにやってくる。「今まで働き詰めだったので、これからは好きなことをやって暮らしたい。そして金儲けばかりではなく、少しは世の中のためになることをしたいものだ」
波江は柴橋老人の頼みを無碍に断ることはできなかった。あいまいな返事をして引き伸ばしていた。それで老人は期待し始めていた。「三福」の店を借りる時の権利金を老人から貸してもらっていた。「花橘」での働きを見ていた老人は喜んで貸してくれた。約定通り、波江は毎月の収入から返済を続けていた。
後添えと言っても親戚筋の反対もあり、妾として自分の傍に来てほしい、というようなことだった。「私のところに来てくれれば暮らしの心配は一切させないよ」和左衛門は、埋め合わせに、暗に贅沢もさせてあげる、と言わんばかりだった。
波江は臥せっている間ずっと考えてきた答を心の中でもう一度握りしめた。その答がこれからの江戸での波江の人生を変えることになるかもしれない、それはそれで仕方がないと覚悟しながら、波江は済まなそうに言った。
「折角の有難いお話ですが、実は母が歳をとってきまして、いつ故郷に帰って母の世話をすることになるとも限りません。母は九州に一人でおります。つい先だって母から手紙が来ました。先のことは分かりませんが、いずれ故郷に帰って親孝行ができれば、と思っています」
「さようか」和左衛門はそう言って、黙って酒を飲み、青物の煮物を食べ、半刻もしないうちに帰っていった。
波江は、今晩はもうお客も来そうにないし、このくらいでお店を閉めようと思い、店の外に出たところに女の子が蹲っていた。
「どうしたの?」
「お腹が痛いの」
「早くお家にお帰りなさい」
「お家、ないの」
波江は女の子の顔をまじまじと見つめた。
「どこで寝泊りしているの」
「大きな木の下とかお寺の軒とか、そんなところ」
「一人なの」
「うん、お母さんいたけど、死んでしまった」
「死んでしまったって?」
「何か事情があるようね。晩御飯は食べたの」
「食べたよ」
「何を食べたの」
波江は女の子がお腹を空かしている。そのための腹痛なのではないかと見当をつけた。
「おばちゃん、まだ晩御飯食べていないんだ。一緒に食べない」
波江は三福のために今晩用意してきた材料を手早く料理して、
「さあ、一緒に食べよう」女の子に箸を持たせた。
女の子は箸を持って「おばちゃん、ありがとう。頂いていいですか」
「勿論よ。一杯食べて」
女の子は、余程お腹を空かしていたのだろう。黙々と食べていたが、一息ついたところで波江は聞いた。
「お名前は何ていうの」
「千恵、です」
「おばさんは明日またここに来るわ。千恵ちゃん、明日また会えるかしら」
この出会いが波江のこれからの人生を後々大きく変えることになろうとは、その時の波江には予想もできないことだ
った。
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