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時代小説「欅風」(19)波江 老婆と出会う  キリシタンの火あぶり目撃

 波江は「三福」の仕事を少し早めに切り上げて家に帰った。最近の不景気のせいか、客足が減っている。江戸の普請景気も一段落したようだ。仕事にあぶれた者が増えている。盗み、殺しの話もよく耳にする。物騒な世の中になってきたものだ。店に来る客の中にもそれとなく、時には下卑た言葉で波江に言い寄るものが出てきた。

 店じまいをして家に帰る時、誰かがつけているような気がする時がある。

「いつまでもこの仕事はできないかもしれない」

 波江は最近そう思うことが多くなった。

 後ろを時々振り返りながら、家に帰ると千恵が夕餉を用意して待っていた。ご飯と味噌汁と漬物だった。

「今日も一日お疲れ様でした。足を洗うお湯を沸かしておきました」

 千恵は波江の顔を見上げ微笑んだ。「おばちゃん、何か気にかかることがあるの」

「ううん、何もないわ。大丈夫よ」

 行灯の明かりの中で夕餉を一緒にとりながら、波江は自分の故郷、平戸のことを千恵に話した。黒子島のこと、ポルトガルの歌ファドのこと、そして悲しい話ではあったが自分がどうして料理好きになったか、など食事の後、布団に入ってからも話は続いた。

 千恵は黙って聞いていた。そしてポツンと言った。

「お母さんにおばちゃんみたいな友達が居たら良かったのに。江戸に来てからお母さんはいつも一人ぽっちだったから」

 それから千恵から思いがけないというより、心のどこかで恐れていたことだが、今日京太さんと菊枝さんの野良仕事を手伝っている時、逃げている切支丹の似顔絵を持って村役人が来たという報告を聞いた。

「どこかに潜り込んでいるかもしれないので、似顔絵の男を見かけたらすぐ知らせるように。かくまったりしたら大変なことになる」と一言脅かして帰って行った、とのことだった。千恵はそれを畑の雑草を引きながら聞いていた、と言った。

 波江は千恵に言った。

「千恵ちゃん。教えてくれてありがとう。でも何も心配しないで。大丈夫だから。どんなことがあっても千恵ちゃん

とおばちゃんは一緒よ。おばちゃんも千恵ちゃんのお母さんとお友達になれていたら良かったのに、って思うわ。そ

うだ。ご飯の時はお母さんの分のご飯もこれから一緒に並べようか」

「おばちゃん、本当? お母さん、きっと喜ぶわ」

「食卓が賑やかになるね、千恵ちゃん」

「うん、そうだね、おばちゃん」

「千恵ちゃん、おやすみ」

「おばちゃんも」

 真夜中、千恵は布団をそっと抜け出し、部屋の隅で祈っていた。

「神様、おばちゃんをお守りください。おばちゃんが心配です。お願いします」

 翌朝の朝餉には三人分が用意された。そして千恵は昼に母親の朝の分を食べるようになった。夕餉は三人分をつくり、母親の分は二人で分けて食べた。


 波江が花橘での勤めを終え、伝法院通りを歩いている時、一人の老婆が倒れていた。波江は立ち止まり、声をかけた。

「大丈夫ですか?どこか具合が悪いのでは」

「急に気分が悪くなって、立っていられなくなりました」

「それはいけません。近くの薬種店がありますからそこで気付け薬を頂きましょう」

「大丈夫です。暫く休んでいればすぐ良くなりますよ」

「少しお顔の色が悪いですよ。薬を飲んだ方が良さそうです。暫くここでお待ちください」

 波江は馴染みの薬種店に走り、気付け薬を買い、竹筒の水と一緒に戻ってきて、老婆に飲ませた。

 暫くたって老婆は立ち上がりながら、言った。

「ありがとうございます。お蔭様で気分が良くなってきました。これなら自分で歩いて帰れそうです。できましたらお名前をお聞かせください」

「お互い様です。私は波江と申します」

「波江さん、ですね」

 波江は老婆を見送った後、家には帰らず、小日向の切支丹坂に向かった。今日そこで、捕まった切支丹の火炙り処刑

があると聞いて、迷った挙句のことだったが、見に行くことにした。何か虫の知らせのようなものがあった。

 小日向の切支丹坂の上には切支丹屋敷があり、捕まった切支丹は一旦この屋敷の座敷牢に閉じ込められ、激しい拷問を受け、拷問の結果、転んだものは幕府の宗門改方の密偵になり、仲間を売らされる。転ばなかったものはすべて火炙りの刑に処せられると、以前耶蘇の友人から聞いたことがある。

 小日向の宗四郎稲荷大明神の社の所を右に曲がり、蛙坂を上っていくと人だかりが見えた。

 燃え始めた薪の煙が流れてくる。人だかりの真ん中に木の柱が立てられ、白い衣を身につけた男が火に焼かれている。顔も身体にもいくつもの傷が見えた。衣が血に染まっていた。

 男は、焼かれながら、「エス様、エス様。私を天国にお導きください!!」祈りとも叫びともつかぬ声を上げていた。

 その声を聞いて波江は愕然となった。そして心の中で叫んだ。「あの人の声だ」

 波江は男にまっすぐに目を向けた。その瞬間、男の目に微笑みが浮かんだのを、波江は見た。そればかりでなく、男を抱きかかえるようにして白い衣を着た人が木の柱の上にいたのだ。その人も火に焼かれながら、男を抱きかかえて

空に上っていった。

 ふと我に返った波江が見たのは焼け焦げて木から地上に落ちている男の亡骸だった。肉の焼ける臭いが辺りにたちこめていた。

 波江は三福に寄り、

「本日都合により、お休みさせて頂きます」の看板を下げて帰路についた。家では千恵が待っている。波江は火炙り

になった男のことを考え続けていた。

「まさかあの人が」

 家に帰ると千恵が三人分の夕餉を用意して待っていた。

「おばちゃん、お帰りなさい。いつもより早いけど、どうかしたの?」

「今日はお店をお休みにしたの」

「それじゃ、おばちゃん、食事にしませんか」

「わあ、美味しそうね。千恵ちゃん、どこで料理を覚えたの」

「お母さんが教えてくれたの」

「どんなふうにして教えてくれたの?」

 千恵はこんなことを言った。

「お母さんと私はいつも食べるものがなくて河原の草とか、農家が捨てている青物、土物の屑みたいなものを農作業をお手伝いして頂いていたの。私達は武家の出です。人のものを盗んだりしてはいけないのです。お母さんがいつもそう言っていたの。本当に食べるものがなくなった時、お母さんはいろいろな料理の作り方を身振り手振りで教えてくれた。千恵はいつか美味しい料理をつくれる女性になるのですよ。そういつも言っていたの」

「千恵ちゃんの料理はお母さんの料理なんだ。道理で美味しいと思った。千恵ちゃんのお

 母さんは料理が上手だったんだね」

「お母さんは死ぬ前、私にシイタケの入ったうどんを作ってほしい、って言ったわ。それで千恵、鰹節でお出しを取

った汁でうどんを煮込み、醤油と味醂で味付けしたシイタケを乗せて、刻んだネギを散らしてお母さんに出したの。

お母さん、それを食べて、『千恵、とても美味しかった。ありがとう』と言ってくれた。お母さんは最後に「イエズ

ス様が千恵と一緒にいてくださるから、お母さんがいなくなっても大丈夫よ。千恵、元気でね」と私に微笑んでくれ

たの」

 波江は空想の世界で食事をつくり、それを食べている母子の姿を思い描いていた。

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