時代小説「欅風」(27)波江の試練(1)
キリシタン探索の動きが本格化していることが波江のこころを一層緊張させていた。今は自分一人ではない。京太、菊枝夫婦に迷惑をかけてはならない。そして千恵を守らなければならないのだ。波江はある決意をした。それは万が一に備えて千恵の信仰を守ることだった。
ある晩、布団の中から波江は千恵に話かけた。
「千恵ちゃん まだ起きている。今晩は大事な話があるの。聞いて貰えるかしら」
「おばちゃん 起きてます。何ですか、大事な話って」
「イエズス様のこと。千恵ちゃんのお母さんはイエズス様を信じていたんだよね」
「信じていたわ。いつもお祈りをしていた」
「千恵ちゃんはイエズス様についてどんなことを知っているの」
暫くの沈黙の後、千恵は波江に答えた。
「お母さんが教えてくれたの。イエズス様は父なる神様のたった独りの子で、私たちを罪から救うために私たちのところに来て下さった。そして十字架に架かり、死んで復活された。人間の罪を赦すために、そしてお母さんと千恵の罪を全部赦すためにイエズス様は十字架に架かられたと、とお母さんはいつも言っていたわ」
「千恵ちゃん イエズス様のこと、難しくなかった?」
「難しかったけど、お母さんの祈っているところみたら、お母さんをきれいな光が包んでいたの。その時、千恵、分かったような気がした。イエズス様がお母さんといつも一緒にいてくださる、って」
「そうだったの」
「お母さんはどんなに貧しくても、食べるものがなくても、ゼウス様がお許しになる限り、人は生きていかなければならないのよ、生きる努力をしなければならないのよと言っていた。だってゼウス様はいつも私たちを大切にしてくださるから、って言っていたわ」
「千恵ちゃんのお母さんは誰からイエズス様のことを聞いたのかしら」
「お母さんと千恵が江戸に出てきてから、ある時もうお金が無くなって、お腹も減って浅草浅草寺のところで横になっていた時、叔母さんが来て、『私のところに来なさい。食べ物も少しあるから』と言って自分の家に連れて行ってくれた。その時叔母さんはお母さんと私の身の上話を聞きながら、『良かったら暫く私の家に居ていいのよ』と言ってくれた。その叔母ちゃんはイエズス様のことを信じていたから、お母さんは叔母ちゃんが信じているイエズス様について教えて貰っていたわ。
ところがある日、大勢の人がやってきて叔母ちゃんを連れていってしまったの。叔母ちゃん、もうそれから戻ってこなかった」
「そうだったの。大変だったんだ」
「おばちゃん、今度はおばちゃんの話を聞かせてください」
「おばちゃんはお母さんではなくて、ある人からイエズス様のことを教えて貰ったのよ。
その人はおばちゃんの故郷の平戸の人だったの。」
「どんな人だったの」
「イエズス様のことをとても熱心に伝えていた。その人は言ったわ「イエズス様がこの地上に平和をつくるために来てくださった」って。日本は徳川が天下を取るまでは、戦国時代がずっと続いていたわ。そしていつも戦(いくさ)があった」
「おばちゃんのお父さんは戦で大きな怪我をしたって聞いたわ」
「そうなの。お父さんが怪我をして自分で歩けないようになってから何かかも変わってしまった。なぜ人は人を不幸にする戦をするのだろうって、おばちゃん考えたの。」
「考えてどんなことが分かったの、私にも教えて」
「戦を起こす人は男の人達だと思ったの。女の人達は戦が嫌いよ。それじゃ、なぜ男の人達は戦をするのかしら。勿論自分達の国を守り、日々の暮らしが脅かされるような時は女の人達も戦います。だけど戦を仕掛ける人が居なければ守ることもなくなるわよね」
「おばちゃん、そこまで分かります」
「なぜ男の人達は戦をするのかを考えたの。そしておばちゃんは思ったの。男の人は皆偉くなりたい、もっと力を持ちたい。そういう欲がとても強いから人と争うようになるのじゃないかしら。そういう気持ちが集まってくると戦になるのではないかと思ったの。
おばちゃんは戦を作り出す人ではなく平和をつくりだす人が男の人達の中にもっともっと出てきてほしいと思った。
イエズス様の教えは「平和」をとても大切にしている。その「平和」をもっと知りたくて おばちゃんは故郷の平戸でその人からイエズス様の教えを聞いたわ。」
「おばちゃん。徳川の時代になったらもう戦はなくなるのでしょう。戦がなければ平和な世の中なの」
「そうね。もうこれからは大きな戦は起こらないと思うわ。でもまだ平和な世の中ではないわ。人々は二代将軍がこれから更に進めようとしている世の中の仕組みづくりを不安な気持ちで見守っている、とおばちゃんは思っているの。イエズス様を信じる人達が捕まったりしていること、千恵ちゃんも知っているでしょ。
人の気持ちは変わりやすいから、いつも変わらない父なる神様、平和をつくりだすイエズス様といつも一緒にいることが大切なのよ。それがお祈りなの。」
「おばちゃん、平和ってどんなことかしら」
「どんなことかしら、これから一緒に考えようか。今晩はこれでお話お仕舞にしょう」
「おばちゃん、お休みなさい」
千恵は布団の上で指を組んで無言で祈っていた。
「イエズス様どうぞ、おばちゃんをお守りください。」
雨が降ってきた。二人の話が終わるのを待っていたかのような雨だった。
波江は千恵に対するいとおしさで胸のうちで泣いていた。
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