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時代小説「欅風」(54) 氏安 天領桑名村立て直し その二

氏安は床下に人の気配を感じた。天岡と叡基に声をかけた。「今日は日和も良い。どうだ、外に出て、歩きながら話の続きをすることにしょう」三人は外に連れ立って出た。藩庁の横に大きな池がある。狭山池の水を引き込んで作った約二反分ほどの大きさで、瓢箪のような形をしていて真ん中に赤い橋が架かっている。橋の中央部迄来た時、氏安は足を止めた。そして小さな赤い橋の上に腰を下ろした。

「腰を下ろしたら良い」

二人は促されて座った。

「ワシは御料地の経営に命がけで当る。それが今戦乱のない平和を築き挙げている徳川幕府へのワシのご奉公の道なのだ。天岡と叡基殿には苦労をかけるが、知恵を絞り、力を尽くしてほしい」

氏安は大きな声で自分の決意を二人に伝えた。二人は言った。

「畏まりました。私達も命がけで働く所存でございます。何なりと仰せください」

氏安は藩庁に隣接している木立に隠れている何者かに、微笑むように目を向けた。

「梢の上を鳥が飛んでいる。新緑が美しい季節になった」


翌日から天岡と叡基は打ち合わせを開始した。これからの段取りについて話合った。

1.これからどのようにして桑名44村の米の生産力を上げていくか。これを大目標にする。米の量だけでなく質の向上もはかる。

2.堤防の工事は朝明川の右岸から始めるが、そのための土は近くの山から持ってくる。

  そのための道作りと土の運搬のための荷車と人足の手配

3.桑名村の米づくりの名人達を集めて表彰する

4.44村の村請制の検地基準を見直し、公平な基準をつくる

5.段取りがまとまったら、庄屋、大庄屋、代官の順で説明し、意見を聞く

特に御料地では大庄屋の存在が大きい。大庄屋の協力が得られなければ、改革は進まない。天岡と叡基は庄屋、大庄屋が納得し、協力してくれる案をまとめなければならなかった。少しでも御料地の桑名村で騒ぎが起きれば、幕府のお咎めを招くことになり、それはどうしても避けなければならない。しかも朝明川の普請は全部狭野藩の負担であった。小さな藩にとっては厳しい負担である。それでも叡基には考えがあった。普請はできるだけ地元の農民にやってもらう、このことであった。朝明川の普請は川の水嵩が低くなる冬場に行ない、農閑期に野良仕事の少ない地元の百姓に人足として働いてもらう。江戸の大川と違い、川幅も狭く水量もずっと少ないので、三ヶ月もあれば完成すると叡基は見積もったが、問題は堤の地盤だった。海の近くの河口付近ということもあり、地盤はゆるかった。現在の堤はあちらこちらで沈下しているところがあり、その上に嵩上げの土を載せると更に沈下に拍車をかけることになりかねない。

叡基は朝明川の堤の上を歩き、行ったり来たりしながら、調べていた。堤のあちらこちらにヒビが入っている。

「これでは遅かれ早かれ堤は決壊する。早く普請にとりかからねば。堤全体に松杭を打ち込まねばなるまい」

叡基は堺から土木測量に長けたものを呼び寄せることにしていた。そして朝明川右岸の百姓に堤の決壊個所と程度、それに水田の冠水被害状況を聞いて回った。

宿舎としてあてがわれた庄屋の離れで叡基は普請にかかる費えの見積作業に入った。狭野藩への負担をなるべく減らさなければならないが、あとあとのことを考えると、手を抜いた普請はできない。三日三晩、叡基は見積作業に没頭した。見積が出来上がった後、氏安に手紙をしたため、見積書に図面を添付して送った。


二日後、叡基からの文書を受け取った氏安は見積金額を見て、表情を引き締め、心中で呟いた。

「叡基殿がつくった見積だ。無駄も足らずもあるまい。御料地で手抜き普請をやったとなれば大事となる。普請の期間は半年だ。今迄の蓄えを使えば何とかなるが、それをそのまま使えば、幕府からどのように思われるか、しれたものではない。ここは思案のしどころだ。」

氏安は藩庁の勘定方から朝明川堤普請の勘定を担当する、松本岳之進を呼び、見積書の内容を詳細に把握しておくように命じた。

「松本。明後日迄桑名に向けて出立せよ。これから1年間叡基殿の下で普請の勘定方を務めるのだ。堺から測量を担当するものも近々桑名に向かうであろう。そのものも我狭野藩の出身の者で、叡基殿が堺に測量の勉学に行かせた者だ。これから1年間、叡基殿を中心に3人で力を合わせて、御料地での普請を立派にやり遂げるのじゃ」


氏安にとって一番神経を使わなければならない問題は「村請制」の石高だった。最終的な目標は44村の村請制の検地基準を見直し、公平な基準をつくる、であったが、それを公にする訳には行かなかった。徳川幕府の石高制の根幹に触れる問題なのだ。太閤検地以降、何度か検地があったが、石高は常に過分に評価されていた。実質石高が例えば200石でも、250石と高めに見積もられ、それが基準となった。御料地は四公六民であったが、250石とした場合、農民は実質100石を年貢とし納めなければならない。従い農民に残るのは100石だった。四公六民という割合については不満はないが、過分に評価されている石高には根強い不満が燻っていた。幕府は一旦決めた石高については、変更はありえなかった。ある御料地で農民の窮状を目の当たりにした代官が何度も幕府に石高替えを上申したが、受け入れられず上申に出かけた江戸の屋敷で切腹するという事件も起きた。氏安に残された道は一つしかなかった。幕府によって定められた石高にできるだけ近づくように増産活動を奨励する。増産することによって農民の実質収入を増やし、同時に年貢も増やす。その一つの方法として氏安は狭野藩の特産物である腐植質を沢山含んだ泥炭と米ぬかを独自の方法で混ぜてボカシた肥料を桑名44村の田圃で使うことにした。それも勿論、狭野藩の持ち出し、負担となった。早急に成果を上げて桑名村民の意気込みを上げる必要があった。物事を成功させるためには勢いというものが大きな意味を持っていることを氏安はわきまえていた。また増産をするためには稲の優良品種選抜も欠かせない。病虫害に強く、味の良い米だ。年貢は1村の村請制だから農民にとっては連帯責任なので、1村の中での優良品種を農民の間に広げていくのは左程大きな問題はないだろう。しかしその優良品種の稲を栽培した者には何らかの褒賞を準備しておかなければなるまい。

氏安は頭の中でさまざまに思い巡らしていた。ひとしきり思案をした後、氏安は考えたことを紙に書付けてから天岡を呼んだ。

「天岡、これを読んでくれ」

天岡は黙って読んだ後、一言で返事した。

「よろしいかと存じます」

「しかと内容を覚えたな」

「しかと」

それを聞いた氏安は湯を沸かしていた火鉢に書付けをひねってからくべた。書付けはめらめらと燃えて灰になった。

氏安は天岡に目配せし、天岡は黙って頷いた。

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