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私の徒然草 第3話「高齢者の高まる感受性」

齢を取ると段々身体が弱っていき、あちこちに故障個所が増えてくる。夜、風呂に入り自分の身体をしみじみと見ながら、80年近く頑張ってきた身体に思わず感謝の言葉をかける。「今迄の人生、いろいろなことがあった。死にたくなることもあった。そして大きな病気にもならず何とか生き抜いてこれた。ありがとう。本当にありがとう」

今年の3月で私も78歳になった。仕事の量は減らしているが、それでも今日は押上と浅草の老人ホームの屋上菜園で栽培作業をして、帰宅後、自転車で自宅に置いてある落葉の袋を自転車で片道20分かけて私たち夫婦の菜園「武蔵野農園」に運び、腐葉土づくりの作業をした。3月も中旬になり、日没も遅くなっている。ひとしきり作業をした後、帰り道、夕焼けを見ながらペダルを漕ぐ。走っている川の堤の道で思わず自転車を停めて夕焼け空を眺める。以前は感じることのなかった思いが胸の中に涌いてくる・・・大いなる存在が語りかけてくるようだ。「今日も一日が終わります。どんな一日でしたか。私はあなたを見守っていましたよ」。「ありがとうございます。今日も無事一日が終わります」。高齢期になって、自然との対話の機会が増えてきている。庭の椿が家の前の道路に花を落としている。毎朝、毎夕、落ちた花の片付けがここ暫く日課になっている。以前ならただ箒で落ちた花を集め、片づけていたが、今は思わず語りかける。「美しい花をありがとう。道路を通る人たちもきっと楽しみにしていると思う」

そして人と人との関係についてもいつの頃からか、人が幸せになることが自分の幸せと感じるようになってきた。以前は自分の幸せをまず考えていたが、今その人が幸せになることをまず考える。その人が幸せになるためにはどのようなお手伝いができるか、と。

そのためにはその人の気持ち、思い、願いと向き合って正確に、しかも深く、共感を持って理解することが大切だ。共感力、これも人生経験を重ねた高齢期に高まる感受性ではないだろうか。押上と浅草の老人ホームは昔ながらの下町にある。昔ながらの古びた2階建ての建物が並ぶ、今は寂れて人通りの少ない商店街の道を歩きながら、子供時代の頃を思い出す。ベーゴマ、メンコ、かくれんぼ・・・。そのような商店街にもポツポツと新しい店が古い店に代わって出店している。これからの時代は特に下町では一層高齢化が進むのではないか。そのためにも高齢者が生き甲斐、幸せ、そしてそれぞれのかけがえのない人生の意味を確かめることができるような場がほしい。特に高齢者は自分の死を日々感じながら生きている。死を感じることで、今、ここの現在に対する感受性が一層高まってくる。そのような思いを分かち合い、支え合う場が必要となってくるのではないだろうか。屋上菜園のあるカフェはどうだろうか。菜園の野菜を見ながら、一緒にお茶を飲み、話に花を咲かせる。そして野菜の世話をする。

高齢期になると身体のあちこちに衰えが出てくる。若返りの筋トレなど手をこまねいていないで、健康体の維持に努めることは大事だが、それだけでなく、高齢者が幸せを実感できるような取り組みがこれから益々重要性を持つように思えてならない。

(了)


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