時代小説「欅風」(25)大川普請竣工 叡基事故に泣く
新之助は普請小屋で寝起きしていた。毎日忙しく過ごしていた。もう直ぐ普請も終わる。そうすれば元の生活に戻ることができる。ある晩、久し振りに夢を見た。妻の三枝と八重と一緒に狭山池の土手に座り、夕焼けを見ていた。握り飯と竹筒に入れた井戸水を三枝は持ってきた。池の水面に夕焼けが映り、揺れている。
「八重、夕焼けがきれいだ」
「父上、まだ眩しくて」八重は右手で顔を覆い、指の間から空を仰いだ。
「夕焼けが池に映ってきれいだ。こちらからは満月が昇ってきている」
「父上、月は見えます」八重は嬉しそうに言った。
「家族三人で一緒に出かけるなんて久し振りですね」三枝はそう言って、握り飯を新之助に渡した。
「八重の目が早く良くなるといいな」
「はい、毎日目薬で目を洗っています。きっと良くなります。父上」
目薬を薬種店から買う費用も馬鹿にならない。
三枝は八重の目のために以前母乳を貰い使ったこともあった。
ススキを揺らして風が吹いてきた。
「もう秋ですね」
「そうだな。今年は豊作だといいのだが」
明け方の夢だった。新之助は目を覚ました後、しばらくぼんやりしていた。西空を見ながら思わず、三枝、八重と何度も呼びかけた。
元吉とおしのは叡基の言いつけ通り、早朝井戸で水を汲み、普請小屋に運んでいた。何度も水桶を運ぶ辛い作業だが、弱音は吐かなかった。
人足はそれで顔を洗い、口を漱ぎ、白湯を飲んだ。厠掃除は昼迄に済ました。厠は大きな穴を掘り、その上に板を渡し簾で囲ったものだった。普請場に10以上ある厠の板の上についている排泄物を元吉とおしのは竹のへらを使い、力を合わせて落としていた。元吉とおしのは厠掃除の時、決まって歌った。
「おれらは 畑を肥えさせる
大事なものを 世話してる
みんな 気持ち良く
働けるよう 掃除している
そして黄色が金に 変わるのさ」
掃除が終わると普請場の近くに生えている大葉を採ってきて、数枚便の上に千切って散らした。大葉の香りがほんのり漂う。
穴が一杯になると郷助の村の農家が肥取りに来た。そしていつもいくばくかのカネを置いていった。
叡基は元吉とおしのの働き振りを見ていた。
「この子供達はただ働いているだけではない。普通の子供と違う。普請が終わったら身元
を引き受け育ててみたいものだ」
元吉とおしのは普請がもう直ぐ終わることを知っていた。普請が終わったら、自分達はまた元の浮浪児生活に戻ることを心配していた。
特に元吉は大人に混じってもうすぐ一人前に働けることを知ってほしい、そう思っていた。
自分がしっかり稼ぐことができれば、おしのにもひもじい思いをさせないですむ。
叡基様も自分の今の年頃には普請場でモッコ担ぎをしていたという。次の普請場ではモッコ担ぎをしたい。いつか叡基様にお願いしよう。
間もなく叡基は元吉とおしのを呼んだ。
「私は日中、いつも現場にいる。何か連絡したいことがあった時、その都度普請場に戻るのは手間がかかることなのだ。そこで、私と普請場の繫ぎをやってもらったら助かる。水汲みと厠掃除が終わった午後からの仕事になる。元吉、やって貰えるかな。」
元吉は聞いた。
「繫ぎはどんなふうにやるのですか」
「私が現場で書いた文を普請場の者に伝え、その文に返事を書いて貰い、私に届けるというやり方でどうかな」
元吉は応えた。「それならできます。是非やらせてください。それでは明日から、ということでよいでしょうか」
叡基は微笑しながら、
「善は急げだ。それでは早速明日から始めることにしよう」
元吉は自分達の働きを叡基様が認めて下さった、そして新しい仕事を与えて下さったことで張り切った。しかし、その結果、取り返しの付かないことが起こると、その時は叡基も思い及ばなかった。
ある冷たい雨の日、元吉は普請の現場にいた叡基の傍にいて待機していた。雨で作業を朝から中断していたが、雨が上がり作業再開となった。そこで普請小屋で待機している人足に叡基より指示が出た。
「これは私が直接伝えるので、元吉はここで待っているように」と叡基は言い置いて普請小屋に向かった。元吉はその場を動かずに待っていたが、その時突然地震が襲い、元吉は足を滑らせた。そのままずるずると身体は横に打ち込まれた松杭にぶつかりながら下に落ちていった。
普請小屋の方でも地震で騒ぐ人足の声がする。
叡基は直ぐ現場に戻り、堰堤に亀裂が入っていないか、人足頭と一緒になって点検をした。
小さな亀裂が入っていたが、幸いたいしたことはなかった。
頭の片隅で元吉のことが気になっていたが、あの利発な子のことだから、きっとどこかに避難しているだろうと思っていた。
次に内部の松杭の点検をしていた時、下の方に着物が見えた。ハッとして下りていくと、元吉が倒れていた。抱き起こす叡基に元吉は薄く目を開けて告げた。
「叡基様。私は現場におりました。持ち場を離れませんでした。しかし、地震で足元がふらつき、滑って落ちてしまいました。」
「元吉、気をしっかり持つんだ。すぐ医者を呼ぶから、頑張るんだ」叡基は耳元で叫んだ。
「叡基様、目の前が暗くなってきました。・・・おしのをよろしくお願いします。叡基様・・・」
元吉は叡基の腕の中で息を引き取った。
その晩叡基はおしのを部屋に呼んだ。
「済まない。元吉を死なせてしまった。あの地震の時、足を滑らせ、松杭の中に落ちてしまったのだ」
おしのは黙ったまま、元吉の頬に自分の頬を寄せて言った。
「元吉兄さん あの世できっと兄さんのおっかさんに会っているね。そうだよね」
そしておしのは言った。
「叡基様。明日からは私が元吉兄さんの分迄、水汲み、厠掃除をします」
叡基は黙っておしのの両手を握り、頭を下げた。
翌日元吉の亡骸は郷助の村に運ばれ、郷助一家の墓に葬られた。叡基は普請を中断し、元吉の墓の前で弔った。
普請場では元気に走りまわる元吉とおしの二人の姿はもう見られなくなったが、おしのは気丈に働いた。そして厠からはあの歌が聞こえてくる。
「おれらは 畑を肥えさせる
大事なものを 世話してる・・・」
普請が終わるのはあと一ヶ月。
叡基は朝晩元吉の霊を弔う祈りを捧げていた。悔やんでも悔やみきれなかった。そして最後の仕上げとなるこれから一ヶ月の普請の安全を祈願し、仏の一層の加護を願った。
もう松杭の普請は終わり、その上に土を敷葉工法で踏み固めていく。以前と同じように炊き出しがあり、職を失って困っているもの、また孤児たちがやってきた。
叡基はいつしか孤児の中に元吉の面影を探していた。
「元吉・・・」
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