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時代小説「欅風」(1)青物侍

 戸部新之助は夕暮れの風が吹き始めた大川の堤を高ぶった感情を冷ますかのように歩いていた。薄暮の景色の中、堤の下に並ぶ店先に橙色の提灯が下げられ、夜の賑やかさが漂い始めている。

(なぜ自分はいつも評定の時に余計なことを言ってしまうのだろうか。あのようなことを言ったために皆の不興を買ったのではないだろうか・・・。なぜ自分は自分の感情を抑えきれないのか。)

 本当はこう言えば良かったのだ・・・考えてもどうしようもない思い煩いを心の中から千切りとって流してしまいたい、新之助は大川の堤を歩きながら、つぶやいていた。


 新之助の江戸下屋敷での勤めは下屋敷の月々の費えの管理であった。月々の油代、炭・薪代、用品、修繕費、輸送駄賃の支払いを任されていた。

 上役の高橋信左衛門は月の費えの報告に行く度に同じことを新之助に言う。

「毎月の費えの枠は決まっておる。藩の財政が厳しき折、節約に一層励むようご家老からも厳しい沙汰がある。心得て勤めに励むよう。超過は許されぬ。良いな。」

(今月は僅かだが節約できた。来月はどうなることか。いくら節約をしても世の中の物の値が上がってしまってはどうしようもない。出入りの商人に値引きを求めるにも限りがある・・・)

 そして新之助にはもう一つ特別なお役目があった。それは下屋敷の青物組のお役目だ。下屋敷では以前から青物を栽培し、上屋敷のお殿様と重臣に運んでいる。青物の中には国許の青物も入っている。

 殿様は「おお、これこれ、懐かしい味だ」と事の他喜んでくださる。殿様は国許の青物については注文をつけ、ささやかな楽しみにしている。

 青物組頭の高田修理は農作業についても詳しく、殿様からの信頼が厚いが、それだけ組の者に対しては厳しい。

「殿様が召し上がる青物じゃ。心して育てよ。青物と言って軽んじてはならぬ。青物は毎日毎日の世話が大事なのだ。一日たりとも油断なきように。」


 新之助が青物組の一人となったのは、去年の秋だった。新旧交替であった。青物組で長く勤めていた工藤仁左衛門は歳のせいか、足腰の衰えが目立ち始め、これを機会に江戸詰めを解かれ国許に帰ることが許された。

 新之助が青物組に加わるにあたり、組頭の高田修理からは、諭すようにこう言われた。

「武士であるおぬしにとって青物を育てるのは、納得のいかぬことじゃろう。百姓に身を落としたような気持ちになるやもしれぬ。しかし、わしは思うのじゃ。やはり人は額に汗して働く時も必要なのだと。百姓、百姓とわしも馬鹿にしておった時期もあるが、青物をしっかり育てるためにはやはり経験と知識が欠かせないのだ。この下屋敷に薪を届けている百姓の郷助には大変世話になっている。当藩には藩政方針のもと、武士も百姓も力を合わせ、助け合うという訓えがある。ゆめゆめ百姓を蔑むようなことがあってはならない。分らぬこと、困ったことがあったらわしに聞け。」

 そう言った後、高田修理は笑顔に変えて、

「新之助。採れたての青物はうまいぞ。上屋敷には形の整ったものを届けるのだが、そうでないものは青物組で頂いても良いことになっておる。自分で青物を育て、自分で食べる。そんな楽しみをおぬしも持てるのじゃ。」

 新之助は青物組の拝命を受ける時、いつ畑作業をするのか、特別手当が頂けるものか、高田修理に聞くつもりだった。

 高田修理は先手を打つかのように元の真顔に戻り、

「藩の財政が厳しいことはおぬしも存じておろう。しかし青物組の仕事は大事なお勤めだ。

 お殿様の思し召しで年米ニ斗のお手当を頂ける。作業の時間は通常のお勤め前とお勤めの後、併せて一刻だ。青物組で当番表を作るので、それに基づき二人一組で作業をするように。心して励むのだ」


 あれから半年、新之助は昨年の秋から作業に加わり、落ち葉集め、米ぬか集めを手伝い、堆肥の作り方も覚えた。そして畑にとって元肥はどれほど大切かも知った。そして弥生の頃には初夏、夏用の、隠元豆、キュウリ、ナス、かぼちゃ、ミツバ、カブなどの青物の種を播いた。サトイモ、サツマイモの作付けも済ませ、順調に生長している。

 国許の銀真桑瓜の種も取り寄させた。

 これから夏の収穫に向けていよいよ忙しくなる。


 新之助は大川の堤に立ち並んでいる食物屋や一杯飲み屋、古着屋などを横目で見ながら歩いていた。桜も散り、若葉が日ごとに増えている。その時、大川の葦の陰の水際にしゃがみこみ、小さな男の子と女の子がなにやら話しているのがふいに目に入った。そこだけぼんやり月の光が当たっているようだった。

 女の子は、男の子の話に頷いていた。それから二人でじっと大川のさざ波を見ていた。

 身投げでもするのではないかと堤の上で立ち止まり、老爺が声をかけた。

「そんなところで何をしているんだ?川にでも落ちたら大変だぞ」

「大丈夫だよ。もうすぐ堤に上がっていくよ。お爺さん、ありがとう」

 男の子は顔を上げて老爺に答えた。

「もうすぐ日が暮れる。早く家へ帰ることだ」

「うん、分かった」


 新之助は二人の姿を見て、こみあげるように国許に置いてきている家族、妻の三枝と娘の八重のことを思い出した。目が悪い八重は今頃どうしているだろうか。

 そう思うと誰かと急に話したくなり、新之助の足は大川の堤から離れ、行きつけの飲み屋「三福」に向かっていた。

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