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時代小説「欅風」(15)波江・新しい生活-1

 波江は次の晩、千恵の来るのを待っていた。しかし、千恵はなかなか来なかった。

「どうしているだろう?」

 暗がりの中から急に姿を現すのではないかと、探し出すように視線を送っていた。今晩はまだ客が誰も来ていない。

 そこに新之助がやってきた。

「久しぶりですね。お変わりありませんか」

「変わりないと言えばないし、あると言えばある・・・」

 新之助は自分の話を聞いてほしいという素振りを見せた。

「あら、どうなさったんですか」

「いよいよ普請が始まるんだ。これから暫くは現場に張り付くことになる。暫くはここにはこれそうにもない」

「どちらの現場ですの」

「大川の千住の現場さ」

「長くなりそうですね」

「半年はかかりそうだね。秋から本格的に作業が始まり、桜の咲く頃には終わっているはずだ」

「大きな工事なんですね。危ないことはないんですか」

「私の仕事は現場で働く人足のための食料の調達だから、危ない場面は無いはずだ。だが、普請には事故はつきものだから油断はできないな」

 

 狭野藩の大川千住の普請にあたっては、郷助の村が食料と人足の調達を受け持つことなった。その食料の調達を青物組が担当する。責任者は高田修理、その下に戸部新之助と石川正之助の二人がついた。村側の責任者である郷助は「これは戦(いくさ)です。だが世のため、人の新ためになる戦なら喜んで戦いますだ」

 新之助はそう言い切った時の晴れやかな郷助の顔を思い浮かべていた。

 そこに町人風の客が連れでやってきた。

「いらしゃいませ」

「いつもの酒と・・・何か旬の青物料理はないかな」

「ありますよ。今すぐ」

 波江は今日の夕方畑で採ってきたとろろ葵と茗荷で手早く突き出しをつくった。とろろ葵を薄い鰹節の出汁に浮かせ、ざっくり刻んだ茗荷を散らし、甘酢で味付けした小皿を二人の前に並べた。

「ここは旬の青物を気軽な値段で食べさせてくれる店なんです」

 常連のような客が連れに説明している。

「うん、きれいな料理だ。花が浮かんでいる。お酒と好く合いそうですな」

「これからもよろしくお願いします」

 聞くともなしに二人の話を聞いていると一人は古着商人で、もう一人は古着の洗濯屋のようだ。

「景気が悪くなるとやはり古着商売は忙しくなるんでしょうね。洗濯の方はうちにお任せください。最近洗い手も増やしました」

 新之助は波江が時々店の外の暗がりに視線を送っていることに気がついた。

「誰かくるのかい」

「ううん、そうじゃないの。でもちょっと」

 新之助も思わず店の外の暗がりを見渡した。波江は誰かが来るのを待っている、しかしそれはどうもお客ではなさそうだ。新之助は波江の顔に浮かんでいる様子からそう感じとった。

「それはそうと、その後身体の具合はどう?」

「大丈夫ですよ。すっかり元気になりました。その節は本当にご心配をおかけしました」

 波江は明るい笑顔で新之助に答えた。

 新之助は今晩は店じまいまで居て、波江を途中迄送っていけたら・・・と心中思っていた。

 波江さんともう少し親しくなりたい。お店の外でも付き合えれば、と。

 酒を飲み、酒の肴を食べながら、新之助は次の話の接ぎ穂を探していた。

 しばらく経って、二人の客は「それでは、また」と帰っていった。

 その後は客足が途絶えた。店を閉めるかという頃に、女の子が暗がりの中から現れ、

「おばちゃん、お皿洗いをします」と言った。

 波江は嬉しそうに、

「千恵ちゃん、来てくれたのね。ちょっと待ってて」

 そう言って手早く料理を一品つくった。

「さあ、これを食べて」

 千恵は「お皿洗いをしてから、頂きます」

「ううん、先に食べて。暖かいうちに」

 千恵は「ありがとう、おばちゃん」と言って食べ始めた。

 波江はもう一品つくっている。

 新之助は二人のやり取りを黙って見ていたが、千恵がもう一品を食べたのを見てから波江に言った。

「きちんとした子供だね」

「そうなのよ」

「何かいわくがありそうだね。それではお二人の邪魔をしてはいけないので、今日はこれで帰ります」

「今晩は遅くまでありがとうございました。近い内にまた来てくださいね」

 店を離れてから振り返ってみると、提灯の灯りに包まれた二人はどこか親子のように見えた。

 その晩、波江は千恵を自分の家に連れて帰った。昨晩眠れぬままに考え、考え、そして決めたことだった。

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