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時代小説「欅風」(49) 新之助 江戸商人になる

江戸小田原町近くに呉服店「萩屋」がある。店主の徳兵衛は既に50歳を過ぎている小柄な人物だった。小田原町には繁盛している魚屋が数軒あり、江戸前の魚介類が毎朝店先に並べられ、威勢の良い売り子の声が途切れることがない。魚屋の先には小間物屋が続き、その隣に普段着用の呉服屋「萩屋」があった。「萩屋」では新品の呉服だけでなく、古着も扱っていた。古着を扱うと新品の呉服が売れなくなると番頭の幸助が心配し、反対もしたが、店主の徳兵衛の決断で両方扱うことになった。

「新品の呉服を買えないお客様も古着だったら買うこともできるだろう。そして暮らし向きが良くなったら次は新品を買ってくださるかもしれない。私どもはお客様と長いお付き合いをするのだよ」

古着を買った客の中には店先に並んでいる新しい呉服に目をやり、「いつか新しい着物を買えるようになりたいわ。そのためには稼がなくっちゃ」と言うものもいる。


狭野藩江戸屋敷の徳田家老は当時江戸では数少ない薮内流の茶会で徳兵衛に会った。徳兵衛は温厚徳実を絵に描いたような人物で、徳田家老は「商人にもこのような人がいるのか」と心中驚き、茶会の後、料亭に誘い、酒食を共にするようになった。徳兵衛には茶道に通じた武士のような雰囲気があった。


徳田家老は藩主の氏安から、密命を受けていた。それは狭野藩の生糸の販売先を江戸で開拓せよ、というものだった。二代将軍になってから藩が外国と直接貿易することを禁止する動きが出てきている。狭野藩の財政を支えている、外国貿易は早晩できなくなるだろう。今まで外国貿易向けに生産していた生糸の新しい販売先を確保しなければならない。それには人口が50万人以上に膨れ上がり、大きな市場に成長した江戸を相手にしよう。

氏安は、天岡と何度も話し合い、決断した。話し合いの中で天岡は次のように進言した。

一つ目。外国貿易の場合は生糸を輸出していたが、江戸向けには模様を施した絹布で販売してはいかが。絹布にすれば、それだけ単価が上がり、量の減少分を補うことができる。

そのためには江戸に狭野藩の息のかかった呉服店を確保して、狭野藩の模様入りの絹布を一部売らせて貰う。模様は流行り廃りがあるので、江戸の模様師でこれはという人物を見つけて指導をお願いする。江戸のお客の好みを直接知るためにも呉服屋に狭野藩の者を住み込みで働かせる。

二つ目。今迄生糸が産品の中心になってきたが、これからは平和の世になり、人々の暮らしも変わっていくだろうから、江戸向けに絹布の他に販売できる商品を開発する。その第一として、栽培が軌道に乗ってきた薬草の販売を江戸の薬種問屋向けに始める、というものであった。

氏安は天岡に「誰を呉服屋に派遣したら良いと思うか」と尋ねた時、天岡は即座に「戸部が良いかと考えます」と答えた。

「戸部にそのような役目が務まるだろうか」

「戸部は江戸詰めの経験がありますし、最近酒を酌み交わした時、『俺は商人に関心がある。

どうも武士道と同じように商人道、とでも呼ぶべきものがあるようだ。折れた屏風のような商人ばかりではない。』 と言っておりました。


氏安は即座に新之助を呼んだ。

「・・・ということであるが、この役目引き受けてくれるか」

新之助は平伏して言った。「お役目、謹んでお引き受けさせて頂きます。」

そう言った後、新之助はこんなことを言った。

「商人になるためにはそれなりの姿形が必要でしょう。髷を切り、前掛をして、江戸町人言葉を覚えなければなりません。木賀才蔵が三年間農民に成り切るために髷を切り、名前を才吉に改めたように、私も商人に成りきります。また名前も変えたいと思います。」

「よくぞ、申してくれた。ワシは良き部下を持って幸せだ。江戸で働く呉服屋が決まったら直ぐに出立するように」

新之助は下がっていった。


さて二つ目のことだが、「薬種問屋向けの開拓は誰にやらせたら良いかな」と氏安が宙を見つめ呟いた時、天岡は

「もし宜しかったら、そのお役目私にさせていただけないでしょうか。大阪の薬研掘の薬種問屋経由江戸の薬種問屋に当たってみる所存です。幸い我藩の薬草は大阪の薬種問屋では高く評価されていますので、紹介してくれるものと存じます」

氏安は微笑を浮かべて、

「限られた年数とは言え、二人の武士の髷を切らせるとは、誠に申し訳ない、そんな気持じゃ」


新之助は帰宅後、三枝に伝えた。

「ワシは藩の絹布を江戸で売るため、また江戸に行く。今度はそうは長くならないだろう。

殿からは1年間と聞いている。これは藩命なのだ」

三枝は暫く下を向いて黙っていたが、顔を上げ、

「・・・分かりました。それで何時江戸に行かれるのでしょうか。一年はアッという間でございましょう。どうぞ藩のお役目に打ち込んでください」

三枝の言葉を聞きながら、新之助は思っていた。

「これでまた江戸の才蔵、郷助、そして波江とも会える」


お稽古事から帰ってきた八重に三枝が話している。八重の泣き声とそれをたしなめる三枝の声が聞こえてくる。

泣きはらした目で八重が新之助のところにやってきた。

「父上、母上から聞きました。お身体に気をつけて、大切なお役目にお励みください。八重は母上と一緒に、家を守っております」


その時、新之助の心の中に、一年間と雖も自分の家族に寂しい思いをさせることになるのだ、不意にこみ上げてくるものがあった。

「三枝、八重。苦労を掛ける。寂しい思いをさせて済まない」

新之助は三枝と八重に頭を下げた。


徳田家老が氏安に「萩屋」徳兵衛のことを報告し、承認を得た後、徳田家老は徳兵衛を料亭に招き、事の次第を話し、正式に頼んだ。

「分かりました。狭野藩は大川の洪水対策を立派にやり遂げられ、私達江戸に住んでいる者も台風の時でも安心して過ごせるようになりました。私どもで何かのお役に立てるなら喜んでお手伝いさせて頂きます。」

快諾してくれた。

徳田家老は叡基の奮闘、職の無い者、孤児達が堰堤の踏み固めで大勢集まり食べ物を振舞われたことが、江戸の評判になったことを思いだした。

「良き仕事をすれば、良き縁が拡がる・・・というのは本当じゃな」


新之助は江戸小田原町近くの呉服店「萩屋」で働くことになった。

立場は番頭付きの使用人だ。

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