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時代小説「欅風」(53) 慈光和尚 人生行路その二  千恵との話

慈光和尚は波江の急に何かを思いだしたような顔を見て、話を中断した。

「どうかされましたか」

「いいえ、何でもありません。失礼しました」

波江は慌てて答えた。

「そうですか。それでは話を続けさせて頂きます。私は琵琶法師の話を聞いて、本当にそんな人がいるもんだろうか。自分の罪の身代わりになって全部赦してくれる神様がいるなら、信じてみても良いのではないか、と思いましたのじゃ」

波江は恐る恐る尋ねた。

「それで和尚様は信じたのでしょうか」

「いや信じるところまではいきませんでした。できるものなら信じたかった」

和尚は波江の顔を見ながら、続けた。

「私は悪性の強い人間です。多くの悪しきことを行ってきました。これは他でもない、私が重ねてきた悪事です。その悪事をいわば他人のイエズス様が私の代わりに全部背負って死んで下さった、などというのは余りに有難く、勿体無い話と思いました。・・・いや話がうますぎる、というのが本当の気持でした。

琵琶法師はキリスト教の真髄について親切に教えてくれましたが、私は人目も気になりましたので、礼を言ってその場を離れ、寺に帰りました」

ある朝、和尚から「無量寿経」を教えて頂き、毎日の朝のお勤めを終った後、和尚は難しい顔を私に向けて言われました。

「オヌシはバテレンの教えを伝える琵琶法師と話していたそうじゃな。檀家の者が教えてくれた。バテレンは表ではイエズスの教えを広めるなどと言っておるが、裏では大名達に武器弾薬を流している。いずれやってくる日本侵略のための露払いをしている死の商人じゃ。隣の中国でやっていることを見れば明らかなことだ。これからはバテレンには近づくな、よいな」

私は和尚からきつく叱られて、返す言葉もなく「申し訳ありませんでした。今後一切バテレンには近づきません」とやっと申し上げた。

「そうですか。それではその後はバテレンと会うことはなかったのですね」波江は話を切り上げる潮時かと思い、そっと和尚の顔を伺った。波江には何故和尚が自分の身の上話をイエズス様の名前迄出して迄、自分に語ってくれたのか、その真意を掴もうとしていた。

慈光和尚は答えた「会うことはありませんでした。しかし私は自分の悪性にその後も苦しめられました。そして私が最後に思ったことはこの悪性から逃げずに、悪性を見つめ続けようということでした。仏とは解けることなり曼珠沙華、という句がありますが、そう覚悟を決めたら、自分を縛っていた何かが解け落ち、それから私は浄土真宗の僧を目指すことになりました。」

波江は聞いた。「和尚様はご自分の悪性を見つめ続けて、どのような悟りを開かれたのでしょうか」

和尚は答えた。「救いは御仏の御慈悲であり、私にできることはただただ念仏を唱えることだけです」そして最後に呟くように言った。最近の幕府のキリシタンに対するやり様は変ってきましてな、捕まえたキリシタンを簡単には死なせなくなりました。それはそれは惨たらしい拷問で、何日何日も苦しめるとか聞きました。見せしめですな。以前幕府は捕まえたキリシタンを火炙りとか槍で殺していましたが、キリシタンが喜んで死ぬ姿を見て、考えを変えましたのじゃ。何故そこまでキリシタンを目の敵にするのでしょうな」


波江はその晩、夕餉の後洗い物をしている千恵に声をかけた。

「千恵ちゃん。話があるの。洗い物が終わったらね」

千恵は手早く洗い物を済ませて、波江の前に座った。

「おばちゃん。お話って?」

「私達のこれからにとってとても大切な話なの。千恵ちゃんも知っていると思うけど、今イエズス様を信じる人達があちらこちらでお役人に捕まえられて、苦しめられて、その挙句殺されているの。幕府はキリシタンを一人残らず捕まえて、根絶やしにするつもりなの。怖ろしい世の中になったわ」

千恵は聞いた。「それでおばちゃんはどうしようと思っているんですか。私、何を聞いても驚かないから、おばちゃんの本当の気持を聞かせてください」

波江は千恵の目を見た。

「千恵ちゃん。おばちゃんは心の中ではこれからもイエズス様を信じていくけど、世間的には慈光和尚様のお寺の信徒となって生きていこうと思っているの。どうしてそう思うようになったかと言うと、おばちゃんのこの世での務めは身寄りの無い子供達を守り、世話をして一人前の大人にしていくことだと考えたからなのよ。そのためにも、生きていかなければ、生き抜いていかなければならないわ」

「おばちゃん。本当のことを言ってくれてありがとう。私はおばちゃんが最近そのことでずっと苦しんでいるのではないかと思ってた。おばちゃん。イエズス様は神の一人子なのに人の世に来てくださって、貧しい人、病気の人、望みの無い人、頼るものの無い人、こころ細い人を、大切な人として扱ってくれて親身になってくださった。それなのに十字架に架かって罪人のように死んで行った。それは私たちの罪の身代わりなのだとお母さんは教えてくれた。だからね、おばちゃん。私たちのこころの中でイエズス様を信じ続けることは大切だけど、もっと大切なことは、イエズス様が身を持って教えてくださったように、世の中の日陰で生きている人々を助けるために生きること、働くことではないかしら、千恵はそう思うの」

波江は思わず千恵の手を取り、言った。「千恵ちゃん、そこまで考えていたの。ありがとう」

千恵は言った。「おばちゃん。私もおばちゃんと一緒に生きていきたい。死にたくない。天国のお母さんもきっと分かってくれると思うわ」

波江と千恵は家の外に出た。満天の星空に上弦の月がかかっていた。

「千恵ちゃん。星が沢山見えるわ」

千恵は星空を見上げ、一つの星を指差した。「おばちゃん。あれがお母さんの星。千恵はお母さんが死んでからいつもあの星を見てきたの」

波江がその星を見ると、何か咽ぶように、潤むように光っていた。


その晩、波江は夢を見た。イエズスが夢の中に出てきて、言った。「波江、あなたの決断は私にとって裏切りではない。安心して生きなさい」


千恵も夢を見た。千恵の母の声がした。「千恵ちゃん。おばちゃんと一緒に生きていくのよ。おばちゃんはあなたのおかあさんよ」


母屋では京司と菊枝が言い争っていた。「おまえさん。もし波江さんがキリシタンだったら私たちもただでは済まないよ。一体全体どうするつもり」

京司は答える。「まだキリシタンと決まったわけじゃない。なにか、おまえは訴えでるつもりか」「そうじゃないけど、心配なんだよ」「一切知らない、ということにするんだ」


翌朝、波江と千恵は慈光和尚の元に行った。波江の話を聞いた後、和尚は言った。

「それでは今日から波江さんと千恵さんは当寺の信徒、ということで良いでしょうか」

波江は答えた。「お心遣いありがとうございます。それではよろしくお願い致します」

寺を出て波江と千恵は直ぐに京司と菊枝のところに朝の挨拶に行き、寺の信徒になった旨、伝えた。


和尚は心の中で呟いた。「これで波江さんも千恵ちゃんも類族にならずに済んだ。一度類族となると幕府にも届けを出さなければならず面倒この上ないことになる」

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