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時代小説「欅風」(56)才蔵と波江の出会い

才蔵は少しづつ生きる自信を持ち始めていた。「自分も人の役に立つことができる」この思いをやっと実感として持つことができた。しかし、一方で才蔵は自分自身のこころの弱さを抱えたままでいた。それは人には言えないことでもあった。以前次郎太には話したことがあった。確かに頭ではどうしたら良いか、わかるのだが、生来の弱さを克服するのはなかなか出来ないことだった。強くならなければならない、そう自分に言い聞かせるのだが、すぐ崩れていく自分がいた。

ある雨の日、町に出かけた。和算の関係の本を買うためだった。古本屋で本を探していると、坊さんも和算の本を探していた。

「子供向けの和算の本がないかと思って探しているのですが、なかなか見つかりません。

大人用はあるのですが、子供向けというのはありませんな」

坊さん、実は慈光和尚だが、呟くともなく、話しかけるともなく、言った。

才蔵は答えるともなく言った。

「そうですな、和算道場向けの虎の巻のような本はありますが、子供向けとなると少ないでしょうな」

才蔵は言葉を継いだ。

「ところでお見受けしたところ、僧籍の方のようですが、何か心が落ち着くような教えの本があれば読みたいのですが・・・、何かありませんか」

慈光和尚は才蔵の顔を見ながら、こう言った。

「袖摺り合うも何かの縁、いや仏様が結んでくださった縁でしょう。私の寺はここから歩いてもそんなにありません。ちょっと寄っていかれませんかな。寺でお話を伺いたいと思いますのじゃが、いかがですかな」

「突然伺ってよろしいのですか」戸惑う才蔵に慈光和尚は笑顔で答える。

「寺は人々のためのものです。いつでもどなたでも遠慮は無用です」

町を出ると周りには田畑が広がっている。一本道を慈光和尚と歩きながら、才蔵は不思議な感じに包まれていた。傘をさして小雨の中を一緒に歩く和尚との会話はまことに少ないのだが、なぜか気持がほどけていくようだ。才蔵はその時、京都の寺の門に書いてあるとか聞いた句をふいに思い出した。「仏とは解けることなり まんじゅしゃげ」

ほどなくして寺に着いた。子供達が和尚を迎える。ちょうど波江の寺子屋が終ったところだった。波江も急いで髪に手をやりながら出てきた。才蔵に頭を下げてから、波江は急いで水屋に行き、薬缶で湯を沸かし、香のものと一緒に茶を運んできた。

和尚が波江を紹介する。

「波江さんといいましてな、私の寺で子供達のために読み書きの寺子屋をやっていますのじゃ。最近和算を子供達に教えたいと言われるので、それで何か良い本は無いかと思い、古本屋に探しにきた・・・という訳でしてな」

「そうですか、寺子屋をされているのですか」

「波江さんが読み書きを教え、簡単な和算を教え、そして農作業も教えていますのじゃ」

傍に座っていた波江は急須から二人に茶を注ぎながら、

「子供達から言われましたの。自分たちにも読み書きを教えてほしい、と。それが寺子屋を始めるキッカケでした。ここにいる子供達は皆それぞれ訳があってここにきました。私は少しでも子供達のためになればと思い、お恥ずかしいくらいの知識しかないのですが、子供達に読み書きを教えるようになりました」

和尚は寺の前に広がる畑に目をやりながら、言う。

「波江さんはこの寺の畑の手入れも子供達と一緒にやってくださっている。ご自分の畑だけでも、ほれ、あちらの畑ですが、忙しいのに、本当にありがたいことです」

波江は口に手を当てて、下を向いたまま言う。

「和尚様が子供達を本当に大事になさっているんですよ。素直で働き者の子供達です。子供達の助けが無かったら、私一人ではとてもできません」

才蔵が恐る恐る聞く。

「お見受けしたところ武家の方のようですが・・・・」

波江は答える。

「それも昔のことでございます。子供の頃学んだ読み書きが、今役に立っています」

和尚が波江に語りかける。

「このお方とは古本屋でお会いしました。私が子供向けの和算の本を探していたら、ちょうど隣でこの方も和算の本を探しておいでだったのだ。何かこころの力になるような本がないかとのお話だったので、わざわざ来ていただいたのじゃ」

才蔵は和尚と波江に頭を下げた。

「お恥ずかしい限りです」

「いやいや皆そうですじゃ。こころに安心と力づけを求めています。こんな時代ですからのう」

「それでは私はこれで」と言って波江は子供達と一緒に畑に出ていった。

才蔵は波江の後姿をいつの間にか追っていた。

「ところで、何かこころが落ち着くような本と言われていましたが、もしよろしかったら、今の気持を伺わせていただけますか」

和尚の言葉に才蔵は促されるようにして、自分をどのように考えているか、話始めた。和尚は相槌を打ちながら、聞いている。

寺の前の畑では波江と子供達の姿が見え隠れしている。

「私の一番の問題は、リンゴに例えるなら中心の芯が腐っている、ということなのです。ですから何をやっても、途中で興が醒めてしまうといいますか、もうあとはどうでもいい、という気持になってしまうのです。ですから何をやってもモノになりません。そうこうしている内に自分が信用できない、というか、どうしようも無い人間に見えてしまうのです。

つまりどこまで行ってもニセモノの人間でしかない。」

和尚は言う。

「とてもそんな風には見えませんが、さてさて人というものは難しいものですな」

才蔵は次郎太のことを話した。

「そんな私でも次郎太さんと話しているとなぜか生きる力が湧いてくるのです」

和尚は才蔵に聞いた。

「そのような方が傍にいるのですか。ありがたいことですね。ところで、何か心休まる本ということですが、もしよろしかったら、時々拙僧と話をしていただけませんか。才蔵さんは今、本を読むことより、顔と顔を合わせて人と話をすることの方が大事かなと思いますのじゃ」

才蔵は月に1回ぐらいなら、郷助と次郎太に相談すれば大丈夫かと思ったが、念のためを考えた上で、答えた。

「ありがたいお話です。仕事のこともありますので、また後日ご返事させて頂きます」

和尚は優しい笑顔で才蔵を見つめた。

「才蔵さん、人生は楽しく、ですぞ」

波江と子供達が収穫した野菜を籠に入れて戻ってきた。和尚は一人一人の子供を抱いて声をかけている。

波江は才蔵に頭を下げた後、和尚に声をかけた。

「それでは私はこれで失礼します」

和尚は波江の後姿を見ながら、才蔵に聞かせるともなく言った。

「あの人はこれから自分の畑での農作業をした後、娘さんと一緒に野菜の行商に出て

それからまた寺に来て、私と子供達のために夕餉を作ってくださるのじゃ」


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